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恋人鍋

※女性同士の恋愛表現を含みます。

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シュウカイドウ


 今日も雨。いい加減傘を持って登下校するのも嫌になってきた。朝は仕方なく重い足を引きずって学校へたどり着くけど、帰りはしとしとと変わらず降り続ける雨を見るとすぐに帰ろうという気分にどうしてもなれなくて、最近は帰る気が起きるまでずっと誰もいない教室で過ごすことが多かった。
 部活動へ行く友達に手を振って、同じく残っていた子たちとお喋りして……気がつくと教室には私一人きりが残る。特別静かな空間が好き、という訳ではなかったのだけれど、こうして過ごす内に不思議とこの空間への愛着が沸いていた。
 今この空間だけは誰のものでもない、私一人きりのもの。
 そう思うとちょっぴり気分が高揚して、どんなことでもできそうな気がしてくる。
 今日出た宿題はもう済ませてしまった。というかこの不思議な習慣を始めてから、宿題を忘れることがなくなったのだ。この高揚感のまま取り組むと、ほんとにすらすら解けてしまうようになったから。
 さて、次は何をしようか。
 わくわく感に足をじたばたさせていると、がらり、と教室のドアが開いた。
「森野? きみ、まだいたのか」
 掠れたハスキーボイスに名前を呼ばれ、その丸っこい目で見つめられた私はばたばたさせていた足をぴたりと止めて思わず背筋を伸ばした。体中を支配していたわくわく感や一人きりであるという優越感が見る見る内に消えて行く。
 この私の不思議な習慣にはかならず終わりがあって、その終わりを知らせにやってくるのが私の担任の秋先生だった。
「秋先生……」
「最近よく教室に残ってるよな、何かやってるのか?」
「え、っと……しゅ、宿題、ここでやると捗るから……」
 先生の目を見つめ続けることができなくなって、視線は先生の手元にある白い花瓶に注がれる。そこには淡い桃色の、小さくて可愛いお花が活けてあった。こんなお花の形のピンを昔持ってたなあ、なんて思いながら、何とか体の中を支配し始めるどきどきをコントロールしようともがく。
 先生が現れると、余裕のある私なんていつも消えてしまうんだ。
「へえ、何だ、それでか。最近宿題忘れないから何でだろうと思っていたけど、そういうことだったんだな」
 ほんの少しだけ丸い目を細めた先生は花瓶を教室の右隅へちょこんと置いた。
 先週あったゼラニウムの花も可愛かったけど、このピン留めの飾りについてそうなお花も可愛い。
「先生、そのお花、何て言うんですか?」
「ん、これ? シュウカイドウって言うんだ」
 花びらをつん、と軽くつついて答える先生。
「うちの近所にこの花が咲いてるお寺があってね、そこの住職さんのご好意で頂いたんだよ」
「へえ……」
 先生の指先に触れている花弁が少しだけ羨ましくて、どきどきと一緒にじくじくと痛みが襲う。
 先生がお花好きなんて今に始まったことじゃないし、あんな風に触れているのを見るのも初めてじゃないのに、何か今日は一段ともやもやする。可愛くて小さなシュウカイドウ、女の子の姿だったら先生を盗られちゃうかもなんて妄想までしてしまった。
 そんな私の思いなど知る由もない秋先生はシュウカイドウを眺めながら、ふと楽しげに唇を吊り上げた。
「花言葉は、片思い」
「えっ」
 唐突に漏れた「片思い」の言葉に、私は心臓が飛び上がりそうなくらい驚いた。
 だけど先生は相変わらずシュウカイドウへ視線を落としたままで、私の方なんてちらりとも見ない。
「いかにも女子が好きな花だと思わない? 愛らしい容姿に花言葉は「片思い」なんて」
「……そうですね」
「うちのクラスは女子が多いから、次飾るならこの花だって決めてたんだ」
 先生、シュウカイドウばかりーーお花ばかり見てないで。
 折角二人きりなのに、こんなの全然嬉しくないよ。
 渦巻いて行く黒い感情に押されて、私の唇から本音が零れそうになる。いや、こんな形で気持ちを暴露なんかしたくない。
 したくないけど。
「……私は、嫌い」
「え?」
 先生が目を丸くしてようやく私を見てくれた。
 だけど、まだ渦巻いている黒い感情のせいで、私の唇は更に花への嫉妬をまき散らしてしまう。
「何かこびてるみたいで、嫌い。可愛ければ何でも女子受けするなんて、思わない方がいいよ、先生」
「……そうか、森野はこういう花、好きじゃないのか」
 私の言葉に先生が苦笑を唇に滲ませる。
「先生は結構気に入ってるんだけどな、シュウカイドウ。自己主張する大輪の花よりも断然、存在を意識するくらいにね」
 シュウカイドウの控えめな愛らしさには気づいても、毎日顔を合わせる私の気持ちを知らない先生がほんの少し憎らしく感じた。悔しい。あんなお花、枯れちゃえばいいんだ。そんな醜いことを更に口走りそうになった自分が、悲しい。
「とにかく、あまり遅くなるなよ。勉強熱心なのもいいけど、遅くなりすぎると親御さん、心配するぞ」
 ようやく先生がシュウカイドウの花びらから指を離して、そのままその手を私に振って出口へ向かう。私が小さな声で「はい」と答えると、その返答に満足したらしい先生がうん、と穏やかに微笑んで教室を出て行った。
 教室には私と、可憐なシュウカイドウだけ。
 先生の遠ざかって行く足音をよそに、私は静かに立ち上がり、ゆっくりとシュウカイドウが活けられている花瓶へ近づいた。可愛い、だけど憎さも同じだけこみ上げてくる。この短時間でこんなにもこのお花への印象が変わるなんて、私は何て嫉妬深いんだろう。
 先生の指先が触れた花弁へ、そっと指を這わせる。このまま私が握りつぶしてしまえば、シュウカイドウは抵抗することもなくその可憐な姿を無惨なものへと変えるだろう。そうすれば先生はもう、このお花を飾らなくなる。ううん、ひょっとしたらお花自体飾らなくなるかもしれない。
 そうすればーー先生はお花以外をーー私を見てくれる?
 指の腹に力が加わった、その時不意に先生の声が蘇った。

ーー花言葉は、片思い。

 片思い。一方的な恋。それは私も同じだった。
 教師と生徒なんてハナっから無理だって分かっていた。みんなが同い年の男子や年上の先輩に熱烈なアプローチを、それこそ大きく咲き誇るヒマワリやバラのような大輪のように主張する中、私はひそりと心の中で先生を思い続けている。それこそ、シュウカイドウのように小さくて手にしたら今にも潰れちゃいそうで。
 そう思ったら、それ以上できなかった。
 そっと指を離し、じっとシュウカイドウを見つめる。しとしとと降り続ける雨の中で、変わらずシュウカイドウはその可憐な姿を留めたままひそかに恋心を主張し続けていた。

夏の終わりに、始まり

※「夏のお嬢さん」と同じ設定。ヒロインの弟のお話。


『ーー以上、お昼の放送を終わります』
 スイッチを切り、ようやく安堵の息を吐く。これで夏期講習含めて学内での活動は一応終わりだ。二日の土日休みを挟んだ後、始業式が始まり、またいつもの生活のリズムが戻ってくる。
 夏休み、完全終了だ。
「かったりぃ」
 ふわあ、とあくびを一つ零して、昼飯用に買っておいたコンビニの焼きそばパンに手を伸ばす。午後は特にやることもない。かといって家に急いで帰ってもクーラー嫌いの母親のせいで快適な昼寝にも勤しめねえ。つるんでる連中はこのクソ暑い中、夏期講習からの一時的な開放感と最後の夏休みを満喫すべくプールに行くと言っていたが、そんなのに付き合うのもごめんだ。
 夏は涼しい場所でひたすら惰眠を貪る。これだね。
 誰に言うでもなくそう心の中で呟いて一人頷いていると、こんこん、と背後からノック音がした。
「……はい?」
「失礼しまーす……あっ、やっぱりいた!」
 聞こえてきた男の声に、俺はあからさまに不機嫌なオーラを出しながら振り向いた。
 弄くっていない自然な頭髪にきっちりネクタイ、無駄に人の良さそうな笑みを浮かべたその男は俺の隣のクラスの奴だ。名前は……知らん。けど、顔は嫌になるくらい覚えちまった。
「かなたくん。探したよ」
「帰れ。ここは放送部以外立ち入り禁止だっての」
「えー、でも今お昼の放送終わったところだよね。いつもここでお昼食べてるって聞いたんだけど」
 くそ、誰だよいらんこと教えた奴。
 手にしている唐草模様の包みを前に掲げて、当たり前のように中に入ってくる。だから立ち入り禁止だって言ってるんだが。
「アンタ、何なの? 何か言いたいことがあんならはっきりしろよ」
「え」
「夏期講習中ずっと付きまとってきて、何なんだよ。男相手にストーカーとか悪趣味にもほどがあるぞ」
 当たり前のように俺の隣を陣取ったそいつから、椅子一つ分移動して距離を取る。するとそいつはうーんと軽く首を傾げて、何かを思い出したようにくすっと笑った。
「オレも基本的に男に興味があるわけじゃないけど。でもかなたくんと友達になりたいなあって言うのはあるよ」
「何だよそれ、きめぇ」
「ひどいな、本心なのに」
「なおさらきめぇよ。訳分かんねえし」
「うーん、まあそうだよね。きっかけも……うん、不純なものだったし」
 おい、何故そこで頬を赤らめる。ますます意味分からん。ときめくなら、うちの顔だけはいい双子の姉貴相手にでもしてくれ。こういうシチュエーションだか何だかにやたら弱いからころっと懐くぞ。
 ますます渋い顔をする俺に、奴は未だ赤い頬をぽりぽり掻きながら、それでもまっすぐに俺を見つめてきた。
「でも、君が放送部員で時々流れてくる放送に声を乗せてるって知って、それを何となく聞いていたら……すごく良い声だなって思ったんだ」
「はあ?」
「お昼の放送もそうだけど、下校時間のアナウンスもしてるでしょ? 他の生徒の声よりもかなたくんの声ってすごく頭に残るんだって気がついたよ。みんな聞き流してるから気に留める人はいないけど、改めて耳を澄ますと君の声、本当に綺麗だった」
 ……どういうリアクションをすればいい。盛大に「はあ? 頭沸いてんの?」と呆れ返った声で言えばいいのか? いや、何か……何かそれは違う気がした。
 放送部に入って、もう数えきれないほど校内に声を飛ばして来たが、こんなことを言ってくる奴は初めてだった。いつもつるんでる連中も、俺の放送に対していちいちコメントしてくることはないし、大体俺が放送の当番で抜ける時、「何で抜けるんだよ、付き合いわりぃな」とまで言われたこともある。
 初めてだった、俺の放送を聞いてしかも「声が綺麗」とかいう変わり者は。
「な、なんて、恥ずかしいこと言ってごめんね。別に深い意味があるわけじゃなくて、単にそう思ったってだけだから、気にしないで」
 誤摩化すように笑って唐草模様の包みを解き始めたそいつに、俺は口にするつもりのなかった問いかけをした。
「お前、何て名前?」
「え?」
「名前、人のこと散々呼んどいて、自分の名前教えないってのはないだろ。……友達とやらになりてえんだろ?」
 そのワードを自分から口にするのは気恥ずかしくて、ついぶっきらぼうな言い方になっちまう。しかし、そいつは混じりけの無い黒い瞳をぱっと輝かせて、どこか誇らしげに口を開いた。
「宇宙」
「は? うちゅう?」
「宇宙って書いて、『そら』って読むんだ。島田宇宙(そら)。それがオレの名前」
 ……なんと言うか、今流行のキラキラネームって奴だろうか。まあ俺もひらがなで「かなた」なんて名前のせいで変な名前だの女みたいだの言われまくってたから、似たようなもんだけどさ。
 けど、こいつーー島田宇宙(そら)はむしろそんな自分の名前を誇らしく感じているらしい。
「……変な名前」
「うん、よく言われるよ。オレも最近までそんなに好きじゃなかったけど……でも、最近はちょっと気に入りつつあるんだ」
 また何かを思い出したのか、嬉しそうに笑う。ほんとによく分からん奴だ。突然脈絡も無く人に付きまとってきたり、誰も聞いていないも同然の放送に耳を傾けて「声が綺麗」とか言いやがったり。
 はあ、とため息を吐いて、放置していた焼きそばパンを引き寄せた。
「ソレ食ったらさっさと帰れよ、島田」
「え、交流を深めるためにどこか行かない?」
「行かねえよ。こんなクソ暑い中うろつくシュミはねえ」
「そっか。じゃあ、ここでのんびり交流を深めるってことにしよう」
「勝手に決めんな、帰れ」
「えー、やだよ。折角かなたくん、友達になってくれる気になってくれてるのに」
「誰がなるっつったよ」
 おかしな会話は絶えない。お陰でさっさと済ませるつもりだった昼飯のペースも落ちて行く。
 けど、不思議とそれが「嫌じゃない」自分がいた。

 夏休みの終わり。俺とそいつの変な交流が始まろうとしていた。

まりあ様に恋をして

※軽微ですが女性同士の恋愛要素を含みます。

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人魚と男


 それは今よりももっと深く、海の青が澄んでいた頃のお話。

 海の深い深いところでは、下半身が魚の尾ひれで覆われた人々が住んでいた。彼らは陸の上で生活する生き物を「人間」と称し、自らを「人魚」と呼んでそれぞれの世界の均衡を保つ為に、決して「人間」の住む陸には上がらないように暮らしていた。
 それでも時折、好奇心おう盛な「人魚」はそんな暗黙のルールを破り、陸の世界を求めて海の明るい場所へ向かって行ってしまうのだ。「あめ」と呼ばれた少女の人魚も、その一人だった。
 あめは幼い頃から自分たちが暮らす暗い深海よりも、その深海の上に降り注ぐ柔らかな光の世界に興味津々だった。大人たちに明るい場所はどんな世界が広がっているのかと尋ねたこともある。しかし、大人たちはあめの問いに答えることなく、ただ難しい顔をして「あの場所には行ってはいけないよ」と窘めるのだった。
「どうして行ってはいけないの?」
「人魚である我々とは違う世界だからだよ。そこには『人間』という世にも恐ろしい生き物が蔓延っていて、我々を見つけたら食ってしまうんだ」
「食べられちゃうの?」
「そうだ。現にあそこへ行って戻って来た人魚は数少ない。戻って来なかった奴らはみんな食われちまったのさ」
 だから、行ってはいけないよ。行ったら食べられてしまうよ。
 繰り返しそう教えられても、あめはきらきらと輝く上が気になって仕方ない。大人たちの言うような怖い世界が広がっているようにはちっとも見えなかった。
 大人は上へ行った人魚がみんな戻って来なかった、と言った訳ではない。つまりそれは、戻って来る方法がないわけではないということだ。
 ちょっと、ほんのちょっとだけでいいから。
 そんな気持ちであめは、大人の目を盗んである日ついに輝く海の表面にたどり着いてしまった。
 ぱしゃん、と柔らかな水音と共に表面を突き抜けたあめはとても驚いた。
 水の感覚がないのに、まだあんなところに上がある。
 真っ青に染められたその空は広く、そこにぽかりと浮かんだまあるい輝きがあめをぎょろりと見下ろしているのが見えて、彼女は思わず後ずさりした。
 怖い。
 でも、綺麗。
 二つの感情が入り交じり、彼女の小さな体をますます高揚させていく。
 そんな時だった。
「ねえ」
「!」
 突然背後から呼びかけられたあめはその長い白髪をびくん、と揺らして硬直した。
「君は誰だい?」
「……私のこと?」
「うん。だって、君と僕以外、ここには誰もいないじゃないか」
 穏やかな声音に飛び上がっていた心臓の音が次第に落ち着き始める。それでもあめは注意深くゆっくりと振り返り、声の主の顔をーー見上げた。
「あ」
 あめを見下ろすように立っていたのは、白い衣に身を包んだあめよりいくつか年上の青年だった。衣にはきらきらと輝く金色の装飾が施されており、まるでおとぎ話に出てくるような所謂「王子」らしい見た目をしていると、あめは感じた。
「ようやく振り向いてくれた」
 彼は柔らかく微笑んであめの目線に合わせるようにしゃがみ込む。よく見れば、彼の足下に広がるのは海ではなく、水の気配が感じられない岩と海藻に似たものが生えたーー所謂陸地と呼ばれる場所であった。
「綺麗な顔だ。まるで人形みたいだ」
「……貴方は、『人間』?」
「人間以外に見えるかい?」
 くすくす、と柔らかな笑い声を立てた彼ーー生まれてはじめて見た人間を、あめはじわりと浮かぶ高揚感と共にぼんやりと見つめるばかりだった。


「人魚、ね。子どもの頃聞いたことがあるよ、魚の尾ひれを持つ半分人間のような妖怪がいるんだって。食べたら不老不死になるとか」
「えっ、や、やっぱり人間は人魚を食べるの?!」
 思わず青ざめて陸地から海へ戻ろうとするあめに、青年ーー陽(よう)は笑いながら首を振った。
「常人なら、下半身以外全く同じの君を食べようとは思わないよ。あくまで伝承であって、実際に食べた人間がいるかは定かじゃないから」
「そう、なの?」
「そうだよ。少なくとも僕は君を食べない。だから安心して」
 陽の言葉にあめはほっと安堵しながら頷く。
 あれからあめと陽は度々出会いの場所である海と陸地の境目で会い、穏やかな水面を見つめながら語り合う日々を重ねていた。あめの下半身には尾ひれがあって、陽の下半身には陸地で生活するための足がある。そんな違いがあることを次第に忘れて行くほど、二人は夢中になって話し続けた。
「この平穏がいつまでも続けばいいのにな」
「なあに、突然」
「……あめ、海の世界って平和なのかい?」
「まあ、平和と言えば平和かしら。サメの出入りするところや、貴方たちみたいな未知の生き物に遭遇しないようにしていれば特に何も起こらない、そんな世界よ」
「そう。いいな」
「そうかしら。ここよりずっと暗いし、退屈な場所よ?」
「そんなことないさ。きっと君が思う以上に平和な世界なんだよ」
「何も起こらない退屈な場所なのに?」
「何も起こらないことが大切なのさ。何も起こらなければ。争いも何もないなら、そこは平和だと思う」
 そう語る陽の横顔は時折寂しそうに歪められることがあった。その度に陽はいつも身につけているあの白い衣ーー軍服に包まれた胸元をぎゅっときつく握るのだ。
「陽……貴方をそんなにも落ち込ませているのは何なの? 話せば楽になるんじゃないかしら」
「ありがとう、あめ。でも、君といる時は辛いことを話していたくない。もっと楽しくて不思議なことばかりでありたいんだ。その方がずっといい」
「……」
「ごめんね。でも、君とこうして話すことができて、僕は救われたんだ。それだけはどうか忘れないでおいてくれると、嬉しいな」
 陽の言葉に、あめはただ静かに頷くことしかできなかった。

 ある日、陽は突然来なくなってしまった。
 その前の日に「またね」と笑顔で別れたのに、いつまで待っても彼が姿を見せることはなかった。
 陽に何かあったのだろうか。確かめたい気持ちはあったが、あめの下半身は尾ひれだ、人間の陽の住む陸地へはこれ以上上がっていけない。
 ここで彼を待つか。それともーー。
「……」
 あめは一つの決意を抱き、海の世界へ戻った。
 目的はただ一つ、海の世界にたった一人だけ存在するという「魔女」に会うために。

「人間になりたいって、アンタ正気かね」
「たった一時でもいいんです。なる方法はないでしょうか」
 他の人魚たちが寄り付かない、サメの出入り口の奥にひっそりと住む老婆はあめが噂で聞いた通り自分を「魔女」だと名乗った。それが本当か否かは関係なかった、ただ陽に一目会いに行く術があれば、不確かな存在に頼ってでも成し遂げたかったのだ。
 魔女は真剣なあめの様子を困ったように見つめていたが、やがて「方法がないわけじゃない」と零した。
「ただ、人間になるための薬を作るには時間がかかる。お前さんにも手伝ってもらうことになるが、それでも構わないかえ?」
「……はいっ! 人間になれるのなら、私、頑張ります!」
 ひたむきに頷くあめに、魔女はうっすらと同情の眼差しを向けながら小さくため息を吐いた。
「哀れな人魚もいたもんだね」

 魔女が告げたように、薬作りには時間がかかった。それも一日二日や一ヶ月二ヶ月というレベルではない。それでもあめはひたすら魔女の元で彼女の指示に従って薬作りの材料集めや、熟成のために海の世界を泳ぎ回った。その間、何度も魔女は「本気かい」「もうここまでにしておいた方がいいんじゃないか」とあめに声をかけたが、彼女の決意は揺らがなかった。
 その間、陽との逢瀬の場所へも欠かさず出向いたが、やはり彼は現れなかった。彼に会えない時間が増えれば増える程、あめは「どうしても一目会いたい」という気持ちを抑えることができず、薬作りに没頭していった。
 そして、薬作りは魔女の一声である日、突然終わりを迎えたのだった。

「どれほど人間になっていられるかは保証できん。薬が切れた後の命の保証もね。それでもやるかい?」
 出来上がったばかりの小皿一杯分の「薬」を前に、魔女は最後の確認をしてきた。
 あめはそれにためらうこともなく頷き、魔女から薬を受け取ると、彼女に深々と礼をした。
「ありがとうございました。私、貴方のことは忘れません」
「……ああ、私もお前のことは忘れないだろうよ。さらばだ、あめ」
 魔女の瞳に浮かんでいた親愛の情にあめは精一杯の微笑みを残し、海の世界を後にした。

 相変わらず陽は逢瀬の場所に現れないままだった。しかし、今のあめには魔女からもらった薬がある。
 飲む直前でほんの少し浮かんだ躊躇いにあめはくすりと笑う。
 だが、今更引き返す道は選ばない。

 尾ひれから人間の足へと変化した直後は、とにかく立つのも精一杯で苦労した。
 それでもあめは歯を食いしばって慣れない足を動かして、陽がいつも背を向けて去って行った方向へ進んで行く。どれほどの時間人間でいられるかは分からない。薬が切れた後の自分も、どうなるかは分からない。しかし、この先に陽はいつも帰って行った。それだけは確かだ。
 と、あめの耳に地面を踏みしめる音が聞こえた。
 はっとして前を向いた途端、バランスを崩してあめはその場に倒れ込んでしまう。
「! 大丈夫?」
 かさかさと音を立てながら倒れたあめの前に現れたのは、あめと同い年くらいの人間の女だった。あめと同じく長い髪を腰まで伸ばし、薄汚くはあったものの鮮やかな赤と白の衣を纏っていた。
「まあ、何故貴方、裸なの? 一体何があったの」
 女は慌てて纏っていた衣の一枚を剥いで、あめの体をすっぽりと覆った。その際に彼女の懐に入っていたと思われる紙切れが数枚、ひらりと音を立てて足下に散らばった。あ、と女が声を漏らすのも構わず、あめは目をむいてそれを拾い上げた。
「……陽」
「え」
 白黒に染まった陽と女が仲良く寄り添ってこちらに笑顔を向けていた。陽はあめの記憶とほぼ同じなのに対して、紙切れに映る女は目の前のものよりもほんの少し若く瑞々しい様子に見えた。
「貴方、私の旦那を知ってるの?」
「だん、な?」
 つたなく女の言葉を繰り返すあめに、女は悲しげに顔を歪めながらそっと呟いた。
「そうよ、彼は私の夫。もう、この世にはいないけれどね」
「いない、って……」
「戦死したの。ここより遠い海で」

 女に支えてもらいながらあめは陽と出逢った陸地と海の境目まで再びやってきた。
 たどり着くと、女は手に提げていた菊の花をそっとその場に置いて手を合わせた。あめも、その動作が何を意味するのか分からないながらも、それに倣ってみた。
「あの人はね、戦争に行けるような度胸も根性もない人だった、ただ何も起こらず、平和でいられたらいいって言うような、そんな人だったの」
「……そう」
「きっと死んだ時も、誰一人殺めることができずにすぐに亡くなったんだと思うわ。手紙、一度も来なかったもの」
 来たのは戦死した、という知らせだけ、と彼女が苦く微笑む。
「海の底は争いも無い、平和な世界だ。生まれ変わったら僕は人魚になりたいと言っていたわ。ほんと、ふざけたことばかり言う人だったけど……優しい人だった。そんな彼に私は妻として何もできなかったから、だからせめて祈ろうと思ったの。彼が穏やかな海の世界で人魚に生まれ変われますようにって」
「人魚に」
「そう。人魚なんて存在するのか私には分からないけど、彼はいるんだって言い張ってたのよ。ほんと、変な人でしょう」
 くすくすと笑いながらも、彼女の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「ほんと、ばかなひと」

 徐々に体の力が抜けて行く。多分、そんなに長くないんだろうな、とあめはぼんやり思った。
 置かれていった菊の花を見つめながら、あめはもしも、の話を思い浮かべる。
 もしも、本当に彼が人魚に生まれ変わることができて。
 もしも、薬が切れた自分が何事もなかったかのように人魚に戻れたとして。
 そしたら海の世界を思う存分案内して、そしていつかまた、ここで話をしたい。
 そんな、もしもの話だ。
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