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蝶々の手鞠(※女性同士の同性愛表現あり)

※今作は女性同士の同性愛表現を含みます。

蝶々の手鞠





 初めに見えたのは、靄のような人魂だった。霧一つない晴れた日なのに、路地裏だけが靄に包まれていたのを幼い私は不思議に思い、一緒に歩いていた母親に「あれはなあに?」と尋ねた。
 母は私ににっこり笑って「あれはアゲハチョウだよ」と靄の中を優雅に泳ぐ黒と黄で彩られた蝶を指した。
 それは人と自分の見る世界が違うとはっきり知ることになる、小学生になる前の話だ。
 それから当たり前のように火の玉やら半透明のヒトやらヒトと動物の化け物やらが、私の周りに現われた。けれど彼は私に興味が無いのか、近寄ってくることはなかった。私自身も不思議な靄に包まれている彼らに近づいてはいけないと本能で悟っていたので、近づこうとすらも思わなかった。
 だから、彼女が気軽に声を掛けてきた時は、本当に驚いた。一見普通の人間にも見えた彼女だけれど、まじまじと見つめれば彼女にもまた、「ヒトならざるもの」の不思議な靄が立ちこめていた。
「貴方、気に入ったわ」
 暗闇で妖しく光る黒猫の瞳のような金が、私の動きを封じる。肩まで揃えられた濃い紅色の髪と、丸い頭の上の黒い花飾りを揺らしながら、彼女は私に近づいてきた。
「とっても小さくて可愛い目をしているのね。まるでお人形さんみたい。貴方の名は何と言うの?」
「ま、り……ですけど」
 同い年、にしてはあまりにも艶かしく開いた乳白色の胸元を見ないように答えると、薄い紅を差した唇がにぃ、と三日月を象る。
「鞠。可愛い名前。ますます気に入っちゃった」
 ちりん、と手首に付いた涼やかな鈴の音色と共に、彼女の指が頬を這う。冷たいのかと思いきや、その温もりはほっとするくらい生温かい。その温もりに少しだけ緊張が解けたのを敏感に感じ取った彼女は、その端正な顔をぐ、と更に私に寄せる。
「だから今は食べないでいてあげる。でも、私のこと、誰かに喋ったりしたら、その時はその可愛い顔を丸呑みさせてもらうわね」
 猫なで声で発せられたその台詞は、未だに思い出すだけでぞっとする。

 それから私と彼女、「蝶々」さんはずうっと一緒だ。

「おかえりなさい、鞠」
「ただいま、蝶々さん。遅くなってごめんね」
 自室のドアを開けば、蝶々さんが艶やかな笑みで私を出迎えてくれる。私の部屋なのに、彼女が優雅に剥き出しの足をベッドに投げ出していて、朱色の長いキセルを片手で揺らしているだけで、彼女の世界に変わってしまう。昔はその変化に戸惑うばかりだったけど、慣れた今となっては日常茶飯事としてそれを受け入れている。
「遅かったわね、どこぞの誰かさんに食われてしまったんじゃないかって、心配していたのよ?」
「それはないよ。私には蝶々さんの匂いがしっかり染み付いてるもん。弱虫の火の玉なんてどっかに逃げて行くよ」
 私の返答に蝶々さんは深紅の唇をにやぁと吊り上げた後、キセルをくわえる。ほぉ、と生まれるのは、あの不思議な靄のような煙。それは馨しい梅の花の匂いに似ていて、吸い込むと気持ちが少しだけ高揚する。きっと嗅ぎ続けていたら、ますます彼女から離れられなくなりそう。ううん、もう遅いや。だって蝶々さんが私のこの小さな部屋からいなくなるなんて、想像したくもないもの。
「どうしたの、ぼうっとして」
「う、ううん、今日も疲れちゃったなあって」
 群青色の鞄を机に置きながら答えると、ほぉ、とまた蝶々さんの吐息が響いた。
「また、例の男の子と一緒だったんでしょ?」
「うん、紀一と一緒だったよ」
 ベッドの隅に腰掛けると、蝶々さんの白い手が伸びて私の髪に触れる。色素が薄いから、蝶々さんみたいな濃い紅色の髪が羨ましい。そっと手を伸ばしてみれば、蝶々さんが私に垂れかかってきた。さらさら、と紅が私の深緑色のブレザーに零れ落ちる様は、花びらが水の中に吸い込まれて行くよう。
 けれど蝶々さんは枯れるどころか、一緒に過ごす時間が長くなれば長くなる程、その美しさを増しているように見える。紅色のおかっぱも乳白色の肌も長い手足も、毎日水と愛情を注がれている草花のように輝いている。
「いいなあ」
「何をそんなに羨むの、鞠」
「だって蝶々さん、すごく綺麗なままなんだもの。私なんて体は大きくなったけど、にきびがたくさんできるしどんなに手入れをしても髪は枝毛ばっかり」
「あら、貴方は十分愛らしいわ、私の可愛い鞠だもの。貴方がそれに気づいていないだけ」
「そうかなあ」
「そうよ。ふふ、でもあの男の子よりも私の方が鞠の可愛いところをたくさん知ってるから、彼の知らない美しい鞠は私だけのものね。悪くないわ」
 ほぉ、とまた吐息。くすぐったくて、ほんの少しだけ気持ちがいい。蝶々さんはいつも私を癒してくれる。今日も心の周りについていた泥を削ぎ落としてくれた。
 本当の私を知るのは蝶々さんだけ。私もそう思う。
 だってこの部屋の外の私は、いつも「彼」に投げつけられる泥でまみれながら足掻いているんだもの。

「俺、鞠のことがよく分からねえよ」
 会う度そうやって私に泥をぶつけてきた紀一のことは、最後まで本当の意味で愛することができなかった。彼もきっとそうだったに違いない。愛していないから、さも当たり前のように知らない女の子とキスをしているところを見せつけた上で、「鞠とはもう付き合えない」とたくさんの泥をかけることができるのだ。
 けど、そんな彼のことは、去り際の背中でさえも思い出すことができない。
 覚えているのはただ一つ。浮気相手の女の子が「彼女」に瓜二つだったから。
 女の子の髪色は明るい茶だったし、蝶々さんみたいな艶かしい色気はなく、ルーズソックスの似合う普通の子だった。あれは違う、蝶々さんじゃない。なのに私の心は泥で溢れかえっていて、身動きが取れなかった。
 何も見えない。ううん、何も見たくない。
 そんなことを強く願ってしまったからなのか。
「鞠、どうかしたの」
 その日、出迎えてくれた蝶々さんを前にしたら、私の口は泥でいっぱいになって息苦しくなってしまった。
 口を開いたら、泥が蝶々さんの陶磁器のように透き通った頬を穢してしまうんじゃないか。そう私の体が恐れているのか、唇から言葉が生まれない。
「……答えて、くれないのね」
 蝶々さんが臙脂色の瞳を細めて、立ちすくむ私を静かに見つめる。その視線が怖くて仕方なかった。
 違う、違うの、蝶々さんとお話ししたくないわけじゃないの。私の中の泥が多過ぎて、唇が動かないの。お話ししたいよ、触れたいよ。でも、何も出来ない。
 蝶々さん、助けて。私、泥で埋もれちゃいそう。
「鞠」
 ひどく冷たい声音に、私はもうだめだと絶望した。じわりと視界が歪んで、ゆらゆらとぼやけた蝶々さんが揺れる。
 嫌わないで。蝶々さん、お願い、私、蝶々さんに嫌われちゃったら……やだ!
 そう強く思った瞬間、私の中で何かが弾ける音がして、気がつけば蝶々さんの腰に縋り付いていた。
 蝶々さん、蝶々さん。いっそ嫌うのなら、私を食べて。
「……すごく美味しそう」
 うっとりとした蝶々さんの声と共に、さらり、と私の髪を梳く優しい手の気配がした。はっとして顔を上げた私に、蝶々さんが臙脂色をうっとりと細め、ゆっくりと唇に笑みを浮かべた。赤い唇から鮮やかな桃色の舌がそろりと覗き、上唇を妖しくなぞっていく。
「傷ついた鞠が、とても美味しそう。私、食べたいわ」
 本当に?
 私の心の声に答えたように蝶々さんが優雅に腰を折って、視線を合わせる。
「ねえ、鞠。食べてもいい? 貴方の傷ついた心。一つ残らずくれる?」
 私の、心。そっと胸元に手を置いた私に、蝶々さんがそうそうと言わんばかりに頷く。
 私の心なんて、汚いもの、食べてくれるの?
 不安げに視線を彷徨わせる私に、「め」と蝶々さんが頬を挟む。
「私の可愛い鞠。貴方の傷ついた心も私のもの。だから、一生離してあげない」
 蝶々さんの舌が、私の唇に触れた途端、ほぅ、と何かが出て行く気配がした。
「蝶々、さん……きらわ、ないで」
 ようやく零れ落ちた私の本当の心に、「よくできました」と蝶々さんが頭を撫でてくれる。
 私の中に溜まった泥を、蝶々さんがヒラヒラと舞う蝶のように指を動かして削ぎ落として行く。
「愛してるわ、鞠」
 残酷なくらい甘い言葉で。
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