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シュウカイドウ


 今日も雨。いい加減傘を持って登下校するのも嫌になってきた。朝は仕方なく重い足を引きずって学校へたどり着くけど、帰りはしとしとと変わらず降り続ける雨を見るとすぐに帰ろうという気分にどうしてもなれなくて、最近は帰る気が起きるまでずっと誰もいない教室で過ごすことが多かった。
 部活動へ行く友達に手を振って、同じく残っていた子たちとお喋りして……気がつくと教室には私一人きりが残る。特別静かな空間が好き、という訳ではなかったのだけれど、こうして過ごす内に不思議とこの空間への愛着が沸いていた。
 今この空間だけは誰のものでもない、私一人きりのもの。
 そう思うとちょっぴり気分が高揚して、どんなことでもできそうな気がしてくる。
 今日出た宿題はもう済ませてしまった。というかこの不思議な習慣を始めてから、宿題を忘れることがなくなったのだ。この高揚感のまま取り組むと、ほんとにすらすら解けてしまうようになったから。
 さて、次は何をしようか。
 わくわく感に足をじたばたさせていると、がらり、と教室のドアが開いた。
「森野? きみ、まだいたのか」
 掠れたハスキーボイスに名前を呼ばれ、その丸っこい目で見つめられた私はばたばたさせていた足をぴたりと止めて思わず背筋を伸ばした。体中を支配していたわくわく感や一人きりであるという優越感が見る見る内に消えて行く。
 この私の不思議な習慣にはかならず終わりがあって、その終わりを知らせにやってくるのが私の担任の秋先生だった。
「秋先生……」
「最近よく教室に残ってるよな、何かやってるのか?」
「え、っと……しゅ、宿題、ここでやると捗るから……」
 先生の目を見つめ続けることができなくなって、視線は先生の手元にある白い花瓶に注がれる。そこには淡い桃色の、小さくて可愛いお花が活けてあった。こんなお花の形のピンを昔持ってたなあ、なんて思いながら、何とか体の中を支配し始めるどきどきをコントロールしようともがく。
 先生が現れると、余裕のある私なんていつも消えてしまうんだ。
「へえ、何だ、それでか。最近宿題忘れないから何でだろうと思っていたけど、そういうことだったんだな」
 ほんの少しだけ丸い目を細めた先生は花瓶を教室の右隅へちょこんと置いた。
 先週あったゼラニウムの花も可愛かったけど、このピン留めの飾りについてそうなお花も可愛い。
「先生、そのお花、何て言うんですか?」
「ん、これ? シュウカイドウって言うんだ」
 花びらをつん、と軽くつついて答える先生。
「うちの近所にこの花が咲いてるお寺があってね、そこの住職さんのご好意で頂いたんだよ」
「へえ……」
 先生の指先に触れている花弁が少しだけ羨ましくて、どきどきと一緒にじくじくと痛みが襲う。
 先生がお花好きなんて今に始まったことじゃないし、あんな風に触れているのを見るのも初めてじゃないのに、何か今日は一段ともやもやする。可愛くて小さなシュウカイドウ、女の子の姿だったら先生を盗られちゃうかもなんて妄想までしてしまった。
 そんな私の思いなど知る由もない秋先生はシュウカイドウを眺めながら、ふと楽しげに唇を吊り上げた。
「花言葉は、片思い」
「えっ」
 唐突に漏れた「片思い」の言葉に、私は心臓が飛び上がりそうなくらい驚いた。
 だけど先生は相変わらずシュウカイドウへ視線を落としたままで、私の方なんてちらりとも見ない。
「いかにも女子が好きな花だと思わない? 愛らしい容姿に花言葉は「片思い」なんて」
「……そうですね」
「うちのクラスは女子が多いから、次飾るならこの花だって決めてたんだ」
 先生、シュウカイドウばかりーーお花ばかり見てないで。
 折角二人きりなのに、こんなの全然嬉しくないよ。
 渦巻いて行く黒い感情に押されて、私の唇から本音が零れそうになる。いや、こんな形で気持ちを暴露なんかしたくない。
 したくないけど。
「……私は、嫌い」
「え?」
 先生が目を丸くしてようやく私を見てくれた。
 だけど、まだ渦巻いている黒い感情のせいで、私の唇は更に花への嫉妬をまき散らしてしまう。
「何かこびてるみたいで、嫌い。可愛ければ何でも女子受けするなんて、思わない方がいいよ、先生」
「……そうか、森野はこういう花、好きじゃないのか」
 私の言葉に先生が苦笑を唇に滲ませる。
「先生は結構気に入ってるんだけどな、シュウカイドウ。自己主張する大輪の花よりも断然、存在を意識するくらいにね」
 シュウカイドウの控えめな愛らしさには気づいても、毎日顔を合わせる私の気持ちを知らない先生がほんの少し憎らしく感じた。悔しい。あんなお花、枯れちゃえばいいんだ。そんな醜いことを更に口走りそうになった自分が、悲しい。
「とにかく、あまり遅くなるなよ。勉強熱心なのもいいけど、遅くなりすぎると親御さん、心配するぞ」
 ようやく先生がシュウカイドウの花びらから指を離して、そのままその手を私に振って出口へ向かう。私が小さな声で「はい」と答えると、その返答に満足したらしい先生がうん、と穏やかに微笑んで教室を出て行った。
 教室には私と、可憐なシュウカイドウだけ。
 先生の遠ざかって行く足音をよそに、私は静かに立ち上がり、ゆっくりとシュウカイドウが活けられている花瓶へ近づいた。可愛い、だけど憎さも同じだけこみ上げてくる。この短時間でこんなにもこのお花への印象が変わるなんて、私は何て嫉妬深いんだろう。
 先生の指先が触れた花弁へ、そっと指を這わせる。このまま私が握りつぶしてしまえば、シュウカイドウは抵抗することもなくその可憐な姿を無惨なものへと変えるだろう。そうすれば先生はもう、このお花を飾らなくなる。ううん、ひょっとしたらお花自体飾らなくなるかもしれない。
 そうすればーー先生はお花以外をーー私を見てくれる?
 指の腹に力が加わった、その時不意に先生の声が蘇った。

ーー花言葉は、片思い。

 片思い。一方的な恋。それは私も同じだった。
 教師と生徒なんてハナっから無理だって分かっていた。みんなが同い年の男子や年上の先輩に熱烈なアプローチを、それこそ大きく咲き誇るヒマワリやバラのような大輪のように主張する中、私はひそりと心の中で先生を思い続けている。それこそ、シュウカイドウのように小さくて手にしたら今にも潰れちゃいそうで。
 そう思ったら、それ以上できなかった。
 そっと指を離し、じっとシュウカイドウを見つめる。しとしとと降り続ける雨の中で、変わらずシュウカイドウはその可憐な姿を留めたままひそかに恋心を主張し続けていた。
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夏の終わりに、始まり

※「夏のお嬢さん」と同じ設定。ヒロインの弟のお話。


『ーー以上、お昼の放送を終わります』
 スイッチを切り、ようやく安堵の息を吐く。これで夏期講習含めて学内での活動は一応終わりだ。二日の土日休みを挟んだ後、始業式が始まり、またいつもの生活のリズムが戻ってくる。
 夏休み、完全終了だ。
「かったりぃ」
 ふわあ、とあくびを一つ零して、昼飯用に買っておいたコンビニの焼きそばパンに手を伸ばす。午後は特にやることもない。かといって家に急いで帰ってもクーラー嫌いの母親のせいで快適な昼寝にも勤しめねえ。つるんでる連中はこのクソ暑い中、夏期講習からの一時的な開放感と最後の夏休みを満喫すべくプールに行くと言っていたが、そんなのに付き合うのもごめんだ。
 夏は涼しい場所でひたすら惰眠を貪る。これだね。
 誰に言うでもなくそう心の中で呟いて一人頷いていると、こんこん、と背後からノック音がした。
「……はい?」
「失礼しまーす……あっ、やっぱりいた!」
 聞こえてきた男の声に、俺はあからさまに不機嫌なオーラを出しながら振り向いた。
 弄くっていない自然な頭髪にきっちりネクタイ、無駄に人の良さそうな笑みを浮かべたその男は俺の隣のクラスの奴だ。名前は……知らん。けど、顔は嫌になるくらい覚えちまった。
「かなたくん。探したよ」
「帰れ。ここは放送部以外立ち入り禁止だっての」
「えー、でも今お昼の放送終わったところだよね。いつもここでお昼食べてるって聞いたんだけど」
 くそ、誰だよいらんこと教えた奴。
 手にしている唐草模様の包みを前に掲げて、当たり前のように中に入ってくる。だから立ち入り禁止だって言ってるんだが。
「アンタ、何なの? 何か言いたいことがあんならはっきりしろよ」
「え」
「夏期講習中ずっと付きまとってきて、何なんだよ。男相手にストーカーとか悪趣味にもほどがあるぞ」
 当たり前のように俺の隣を陣取ったそいつから、椅子一つ分移動して距離を取る。するとそいつはうーんと軽く首を傾げて、何かを思い出したようにくすっと笑った。
「オレも基本的に男に興味があるわけじゃないけど。でもかなたくんと友達になりたいなあって言うのはあるよ」
「何だよそれ、きめぇ」
「ひどいな、本心なのに」
「なおさらきめぇよ。訳分かんねえし」
「うーん、まあそうだよね。きっかけも……うん、不純なものだったし」
 おい、何故そこで頬を赤らめる。ますます意味分からん。ときめくなら、うちの顔だけはいい双子の姉貴相手にでもしてくれ。こういうシチュエーションだか何だかにやたら弱いからころっと懐くぞ。
 ますます渋い顔をする俺に、奴は未だ赤い頬をぽりぽり掻きながら、それでもまっすぐに俺を見つめてきた。
「でも、君が放送部員で時々流れてくる放送に声を乗せてるって知って、それを何となく聞いていたら……すごく良い声だなって思ったんだ」
「はあ?」
「お昼の放送もそうだけど、下校時間のアナウンスもしてるでしょ? 他の生徒の声よりもかなたくんの声ってすごく頭に残るんだって気がついたよ。みんな聞き流してるから気に留める人はいないけど、改めて耳を澄ますと君の声、本当に綺麗だった」
 ……どういうリアクションをすればいい。盛大に「はあ? 頭沸いてんの?」と呆れ返った声で言えばいいのか? いや、何か……何かそれは違う気がした。
 放送部に入って、もう数えきれないほど校内に声を飛ばして来たが、こんなことを言ってくる奴は初めてだった。いつもつるんでる連中も、俺の放送に対していちいちコメントしてくることはないし、大体俺が放送の当番で抜ける時、「何で抜けるんだよ、付き合いわりぃな」とまで言われたこともある。
 初めてだった、俺の放送を聞いてしかも「声が綺麗」とかいう変わり者は。
「な、なんて、恥ずかしいこと言ってごめんね。別に深い意味があるわけじゃなくて、単にそう思ったってだけだから、気にしないで」
 誤摩化すように笑って唐草模様の包みを解き始めたそいつに、俺は口にするつもりのなかった問いかけをした。
「お前、何て名前?」
「え?」
「名前、人のこと散々呼んどいて、自分の名前教えないってのはないだろ。……友達とやらになりてえんだろ?」
 そのワードを自分から口にするのは気恥ずかしくて、ついぶっきらぼうな言い方になっちまう。しかし、そいつは混じりけの無い黒い瞳をぱっと輝かせて、どこか誇らしげに口を開いた。
「宇宙」
「は? うちゅう?」
「宇宙って書いて、『そら』って読むんだ。島田宇宙(そら)。それがオレの名前」
 ……なんと言うか、今流行のキラキラネームって奴だろうか。まあ俺もひらがなで「かなた」なんて名前のせいで変な名前だの女みたいだの言われまくってたから、似たようなもんだけどさ。
 けど、こいつーー島田宇宙(そら)はむしろそんな自分の名前を誇らしく感じているらしい。
「……変な名前」
「うん、よく言われるよ。オレも最近までそんなに好きじゃなかったけど……でも、最近はちょっと気に入りつつあるんだ」
 また何かを思い出したのか、嬉しそうに笑う。ほんとによく分からん奴だ。突然脈絡も無く人に付きまとってきたり、誰も聞いていないも同然の放送に耳を傾けて「声が綺麗」とか言いやがったり。
 はあ、とため息を吐いて、放置していた焼きそばパンを引き寄せた。
「ソレ食ったらさっさと帰れよ、島田」
「え、交流を深めるためにどこか行かない?」
「行かねえよ。こんなクソ暑い中うろつくシュミはねえ」
「そっか。じゃあ、ここでのんびり交流を深めるってことにしよう」
「勝手に決めんな、帰れ」
「えー、やだよ。折角かなたくん、友達になってくれる気になってくれてるのに」
「誰がなるっつったよ」
 おかしな会話は絶えない。お陰でさっさと済ませるつもりだった昼飯のペースも落ちて行く。
 けど、不思議とそれが「嫌じゃない」自分がいた。

 夏休みの終わり。俺とそいつの変な交流が始まろうとしていた。
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