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不幸中のアルパカ

※即興小説で未完成になっていた同名タイトルのものの完成版です。いつも以上に荒めの仕上がりです。


 今日は、とびきりついていない日だった。
 目覚ましをたたき落として起きられなくて遅刻しちゃうし、遅刻したせいでせっかくぎりぎりまで頑張って仕上げた課題を持っていくのを忘れるし、そのせいで一日中担任の中原のくっさいタバコの匂いに囲まれながら資料室の整理をさせられるし、整理から戻ってくるなり片思いの相手である橋本くんに「三浦、くっせー」って笑われるし。
 どうして悪い事ばかり連鎖してしまうんだろう。
 ここまで落ち込んでいくなら、あとは上がるだけなはずなのに、ついさっき道端で捨てられてたガムを踏んでしまった。はぁ、ついてない。
 ええい、こうなったら真面目くさって家に帰るのなんてヤメヤメ。
 ゲーセンによって憂さ晴らししちゃおう。おーう!
 家へ直進していた足をくるりと回れ右して、隣町の大きなゲームセンターに向かう。
 あそこなら知り合いにも会わないし、先生にだって見つからないもんね。

 そう思って来たというのに、やっぱり今日の私はついていないらしい。
 ゲームセンター内に入って早々、担任の中原が生徒を捕まえているところを目撃してしまった。
 ええ、どうして。ここにも先生の見回りがあるなんて聞いてないよ。
 ひとまず見つからないように隅っこの方に向かい、ちょうど後ろにあったクレーンゲームの台の影に身をひそめた。不格好だけど、バレるよりマシ。
「こら、三浦」
「はっ?!」
 見つかった!
 瞬時に私の背筋が伸びて全身に緊張が走る。
 ところが次の瞬間、中原の怒声ではなく、少しだけハスキーボイスの笑い声が聞こえて来た。
「引っかかってやんの」
「は、ははは橋本くん?」
「安心しろよ。中原なら反対の方にいた奴のとこ行ったから。しばらく戻って来ないよ」
「そっか……はあ」
 一気に脱力した私に、橋本くんは小さな瞳を私の後ろに向けた。
「なあ、遭遇したついでに頼みがあるんだけど」
「へ?」
「あのアルパカ、取るの手伝ってくれない?」
 アルパカ? 
 後ろを向いてみたら、あらまあ、小さなふわふわの生き物に遭遇。白、黒、ピンク、黄色。カラフルなふわふわの生き物の円な瞳をまじまじ見つめていたら、ちゃりちゃり、とお金が入る音がした。
「ほら、三浦は側面から見てて。俺が操作するからさ」
「わ、分かった。狙いは何色?」
「黒。でも、その手前の白い奴の方が取りやすそうだな……」
 真ん中で存在を主張するかのように首を伸ばす白いのと、その白いのに身を潜めている橋本くん狙いの黒いの。確かに白い奴が取れそうだけど……そっか、橋本くんって黒が好きなんだ。
 バーがその体をふらふらさせながら横真っ直ぐに進んでいく。
「あ、そこでストップ」
「っと。よし、いい感じ」
「……ねえ、橋本くん、質問していい?」
「ん?」
「橋本くんは、アルパカ好きなの?」
「別に」
「じゃあ、UFOキャッチャーが好きなの?」
「まあ、そんなとこ。進むぞ」
 橋本くんの合図で、私は大きく頷く。バーが垂直に動いていく。あれ、そういえば結局どっちを狙えばいいんだろう。黒狙いだけど、白の方がとりやすいと言ってたし……と、二匹のアルパカの間にあったひょろりと頼りない輪っかを見つけた途端、
「止めて!」
「おわっ」
 自分でも驚くくらいの大声で叫ぶと、バーがぴたりと例の輪っかの上で止まった。
「おい、これホントに取れんのか?」
「うん。今この瞬間だけでも、私を信じて」
 橋本くんにはあの輪っかが見えてないようだ。それでも、私の顔がいつになく真面目だったからか、訝しみながらも頷いてくれた。ああ、橋本くん優しいなあ。
 バーが下りていって、輪っかの両サイドから差し込まれていく。うん、いける。
 そう思った瞬間、バーが上がって、橋本くんの口から私以上の大声が飛び出す。
「おおっ……!」
 バーに引っかかった輪っか。その下にぶらーりと揺れる黒と白のアルパカ。
 そう、輪っかは二つ。それが奇跡的にぴたりと寄り添うように並んでいたものだから、私は自分の運がようやく回って来たのを実感した。しかも好きな人と一緒の時に起きたプチ奇跡。そうか、今までの不幸はみんなこの時のためのものだったんだと思えるくらいに。
 ぽふん、と間の抜けた音を一つ立てて二つのアルパカがぽっかり空いた手のひらサイズの穴の中に落ちる。橋本くんは下部にある商品受け取り口からその柔らかな二匹を取り出すと、私に向かって親指を立てた。
 やったぜ、とかグッジョブ、とか言いたかったんだろう。だけど、興奮していたせいか、その言葉は声にならずにひゅーっと笛のような音となって彼の唇から漏れていった。
「やったね、橋本くん」
 私はどきまぎしながら、できる限り彼に魅力的に映るように、にっこりと笑って返したのだった。

 けど、そんな一時もすぐに終わってしまうわけで。
「げ、中原こっちに戻ってきやがった」
 橋本くんが眉をしかめてそう呟いたかと思うと、その手に乗せられていた白いアルパカを私の方へ放り投げた。あ、見た目以上に柔らかくて気持ちいい。
「俺、こっちから帰るから。お前はそっちから帰っとけ」
「え、で、でも……」
 橋本くんが行こうとしているのは、出口とは正反対の方だ。
 それに思わず受け取っちゃったけど、この白いアルパカは一体どうすればいいんだろう。
 私の二つの戸惑いを読んだかのように、橋本くんが丸っこい瞳を頼もしげに輝かせる。
「制服姿の男女が二人並んでる方が目立つしな、俺は迂回して帰るよ。あと、そいつは戦利品。三浦の協力で手に入れたもんだしな」
「あ……ありがとう……」
「何言ってんだよ、礼言うのはこっちだ。あのアルパカ取るのに三千円損してさ、お前が来なきゃ諦めてたとこだったんだ。おまけに中原も見回りだったしさ。だからお前に出くわしたのは、不幸中の幸い、って奴だな」
 不幸中の幸い。それは私も同じ事だ。
 すごくついていない日だと思っていたけど、それが全て帳消しになって、幸福な日になった。白とアルパカは、これから私の好きなキーワードになるだろう。
 じゃあな、と橋本くんが軽快に駆けていく。その学生鞄にぶら下がった黒いアルパカを眺めながら、私はしばらくその場で幸福な今の空気を存分に味わったのだった。
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思い出は曲の中に

※同タイトルの即興小説の、とりあえず完成版です。またいつかリベンジしたい。


 ピアノを弾く北岡さんを見たのは、夏休みが終わって間もない頃、蒸し暑さが残る放課後のことだ。

 今日も特に実りのないおしゃべりに花を咲かせ、次の文化祭で出す部誌の内容も決まらぬまま解散した我が文芸部。部室代わりに使っている二年の教室で一人、作りかけの短編小説に精を出していた私の耳に、涼しげなピアノの旋律が流れてきたのだ。そういえば、この階の奥は音楽室だったことを思い出しつつ、その音色を聞き流しながらシャープペンシルを走らせようとしたのだが、どうにも心の中で『何か』が引っかかって落ち着かない。
 ……この旋律、聞き覚えがある。何の曲だったっけ。えーっと。
 くるくるとシャープペンシルを回転させながら思考を巡らせてみるも、音色が意味ありげに脳内で響き渡るばかりで、答えを導き出すことができない。うう、気持ち悪い。後少しで思い出せそうで、思い出せない。確かこの時容疑者は密室殺人に見せかけるために、被害者に鍵を……ああ、違う、今書いている小説のことじゃなくて、ええと。
 だめだ、これじゃあちっとも捗らないし、気持ちが悪いだけだ。
 ぱし、とシャープペンシルを放り出し作業を中断した私は、旋律を辿って音楽室まで歩いていった。
 そっとドアの窓から覗いてみれば、オレンジ色の光を反射した真っ黒なグラウンドピアノの前に、薄紅色のワンピースを着た一人の女の子が座っているのが見えた。
 ん、女の子? 放課後の高校に、女の子??
 何かの見間違いじゃないかと思い、目を擦りながらドアを開けると、旋律が唐突に止んだ。
 グラウンドピアノの前には、黒髪を高く結い上げたポニーテールの同級生が一人。
 あれ、なーんだ、北岡さんだ。
「北岡さん」
 すると、北岡さんはびくりと大げさに肩を揺らして立ち上がり、目の前に広げていた楽譜らしきノートを素早く胸元に抱きしめて振り返った。赤いメガネ越しの小さな目が、怯えるように揺れている。
「……須藤、さん、いつから」
「え、えっと、さっき来たばかりだけど。今の曲、北岡さんが弾いてたの?」
 すると北岡さんはノートを更にぎゅっと抱きしめて俯いてしまった。その小さな肩が震えている。
 触れたら今にも消えてなくなってしまいそうな、儚い体。
 そのキーワードに、私はふと記憶の欠片が目の前に横切るのを見た。

 薄紅色のワンピース。グラウンドピアノの前の女の子。その子がはにかみながら、私にノートを広げる光景。
『ねえ、るりちゃん、見て見て』
『このうたはなあに?』
『えへへ、お母さんに作ってもらったの。ーーの歌だよ』
 今度の発表会で演奏するんだと笑う彼女。楽しみにしていた私。
 けれど、その曲が発表されることはないまま、彼女はピアノを辞めた。
 そして。

「ごめん、もう行くね」
「あっ」
 ピアノに蓋をすることもなく、北岡さんが前屈みの姿勢で私を横切ろうとする。
 その細腕を思わず引き留めた自分の右手に、私は自分のことなのにすごく驚いてしまった。ああ、北岡さんのメガネの向こうの瞳が、少し潤んだその表面が大きく見開かれる。
「な、に……すどうさ」
「北岡さん……ううん、あいちゃん」
「っ!」
「あいちゃん、だよね。小さい頃、一緒に遊んだ、ピアノの『藍ちゃん』」
 北岡さん、ううん、藍ちゃんの唇がぷるぷると震える。
 何で、何で今の今まで、全然思い出せなかったんだろう。藍ちゃんとはあんなに仲が良くて、ずっと藍ちゃんの奏でる歌を聞いていたいと、あの頃の私は確かに願っていたはずだったのに。
「私、るりだよ。……あ、そういえば、あの頃は名字なんて頭になかったから、お互いぴんとこなくて当然か」
「……」
「藍ちゃん、確か小学校二年の時に引っ越したんだよね。またこの町に戻って来たんだ」
「……もう、昔の話だから」
「え」
 ぽつり、と彼女から零れた言葉は、小さいながらもどこか悲壮感に満ちていた。
「もう昔の話だし、忘れられても仕方ないよ。友達だったのも、あの頃の話だから……」
「何で……どうしてそんなこと言うの? 私、さっきの歌も藍ちゃんとも会えて嬉しかったのに」
 彼女の腕の中に抱きしめられている楽譜。そこに収められた曲は。
「それにその曲、『私』の曲、だよね。藍ちゃんと藍ちゃんのお母さんが作ってくれた曲」
 私の指摘に藍ちゃんがはっとして顔を上げる。
「……覚えてたの?」
「正確にはさっき弾いていたのを聞いて、思い出したんだけど。でも、全部思い出した。藍ちゃんが私のためにお母さんに頼み込んで曲を作ってくれたこと。だけど、その後藍ちゃんのお母さんは亡くなっちゃって……藍ちゃんが転校しちゃったことも」
 だから、『るり』の曲はお披露目されることなく、ショックを受けた藍ちゃんはピアノを辞めてしまったんだ。私は藍ちゃんのピアノをもう一度聞きたかったけれど、藍ちゃんのお母さんのお葬式が終わると、藍ちゃんは家族と共に引っ越しをしてしまったんだ。
『あいちゃん』
『……ばいばい、るりちゃん』
『っあいちゃん! わたし、まってる! またあいちゃんがかえってくるの、まってるから!』
 ピアノを弾いていた頃のような明るさがすっかり失われてしまった藍ちゃんに、私は懸命に声を張り上げて「待ってる」と繰り返した。そして藍ちゃんを乗せたトラックが視界から消えても、しばらくその場に佇んだまま、藍ちゃんに約束した。
『あいちゃんと、また会う』ことを。
 私は震える藍ちゃんの両手を握って、視線を合わせた。
「藍ちゃん、ごめんね。すぐに気づいてあげられなくて。私、あんなに待つって言ったのに」
「……るりちゃん、いいの。るりちゃんが私を、あの曲を忘れていても仕方ないって、私自分に納得させてた。どんどん年を重ねるにつれて、あの大切な思い出が私の中でもセピア色になっていくのは止められなかった。そういうものだもの、時の流れって。どんなに大切にしていても、忘れてしまうものだって、あるんだわ」
「藍ちゃん……」
 耐えきれなくなった私は、藍ちゃんをぎゅーっと抱きしめて泣いた。すると藍ちゃんも小さく呻きながら泣き始めた。重ねた体はお互いに成長してしまっていたけれど、心の中は私も藍ちゃんもあの頃みたいに何も知らなかった子どもに戻って、ひたすら感情をぶつける。

「ねえ、藍ちゃん。るりの曲、弾いて欲しいな」
 太陽が沈みかけて、少し涼しくなった風で涙を乾かすと、私は藍ちゃんにお願いした。私と同じく目の周りを腫らした藍ちゃんは私に掴まれたままの両手をもじもじさせて、
「ブランク長いから、あの頃より下手だよ?」
「聞きたいんだ。藍ちゃんの曲」
「……ありがとう」
 はにかんで私の両手を離すと、藍ちゃんは再びグラウンドピアノの前に向かった。
 思い出の旋律が、私たちをゆっくりと巻き戻していく。

あの日のところてん

即興小説で書いた「さようなら、これが貴方のためだから」に手を加えたものです。


 私と同じ顔を貼り付けた都会人が通り過ぎていく。太陽の熱を孕んだコンクリートジャングルを、ただひたすら一心不乱に駆け抜けていく彼らを、私は小さな不動産屋とお弁当屋の隙間にしゃがみ込んで見つめている。ああ、汗とタバコとアルコールの入り混じった臙脂色のジャージが臭くてたまらない。その臭いを誤摩化すように、くしゃくしゃになったポケットティッシュを取り出して鼻にあてる。
 もう何日になるだろう。ううん、ひょっとしたら月単位で時間は過ぎているかもしれない。私が「家」という檻の中から抜け出し、「都会」というジャングルを彷徨うになってから、私の中の時間は錆びて動かなくなってしまった。「彼女」に出会わなかったら、私はどうなっていたかな。「獰猛な生き物」に食い殺されて、「ジャングル」どころか、この世からもいなくなっていたんだろうか。

「美知(みち)」

 ハスキーなソプラノが私を呼ぶ。おずおずと視線を上に向けると、燦々と輝く太陽をバックに珠樹(たまき)さんが腕を組んで私を冷ややかな目で見下ろしていた。青空色のカラコンを入れた鋭い瞳、うっすらと見える細い眉、ピンクゴールドのルージュを乗せた薄い唇、色が抜けて金色どころか真っ白に見える肩まで伸びた髪、そして今にも耳たぶから千切れて落ちてしまいそうな、鈍い銀色に輝く楕円型のピアス。
 いつもの珠樹さん。でも、その姿を目の当たりにした私の体は急激にがたがた震え出す。視線もすぐに落ちて、珠樹さんの黒いハイヒールの傍にころころ転がった。そんな私の右腕を珠樹さんは無理矢理掴んで引っぱり、立たせる。
「ここじゃあれだから、移動するよ」
 はい、と言う声も掠れて情けない。けれど、珠樹さんは何も言わずに強い力で私を引っ張ってずんずんと歩き出す。隙間にしゃがみ込んでいた時の私と同じ顔をした都会人が、私と珠樹さんの進路を時折塞ぐけれど、珠樹さんは強引に彼らを押しのけてどんどんと歩いていってしまう。ああ、出会ったときと同じ。珠樹さんはかっこいい。この「ジャングル」の中で、私が唯一信頼できる人、私を引っ張ってくれる人。
 そして同時に、珠樹さんは私に試練を課した、私がこの「ジャングル」で最も恐れる人。


 都会人の行き来が少ない小さな路地にある、一軒の茶菓子屋さんまではさほど時間を要さなかった。
「いつもの」
 藍色の暖簾を振り払うように潜り、酸っぱい匂いの漂う狭苦しい店内で珠樹さんはそう言い放つと、二つしかない席のうち、掘りごたつの席へ私を誘う。ヒンヤリと冷たい漆黒の長椅子にぷるりと身を震わせていると、
「それで美知、約束の金額は稼げたの」
 間髪入れずに珠樹さんが本題を切り出したものだから、背中が凍り付いた。
「美知」
 私の名を呼ぶ珠樹さん。ああ、珠樹さんが顔を上げろと言っている。けど、私は怖くて視線を椅子と同じ漆黒色の机に向けてしまう。真っ黒で何も見えない底なし沼に今沈めたらどんなに楽か。でも、もしそうなっても珠樹さんは無理矢理私を沼から引きずり出して、同じ事を問うのだ。私がしっかり答えるまで。

『アンタ、家に帰る気、本当にないんだね?』

 初めて出会った時もそう。珠樹さんは私が答えるまで、その視線の鋭さから逃げようとした私の腕を離さなかった。だから私は珠樹さんが怖くてたまらない、けれど同時に、とても好きだ。だって、珠樹さんだけだった。この「ジャングル」に一人飛び込んで来た私に声を掛けて、常に気に留めていてくれたのは。

 だから、私は答えなきゃ。
「じゅう、まん、かせげません、でした」
 焦点を乱しながらも顔を上げて、珠樹さんのその眼差しに向かって答える。
 すると、珠樹さんはその細い眉をきっと吊り上げて、唇から嘲り笑いを零した。
「は、ふざけるんじゃないよ。言ったよね、ここで、しかも『温室』育ちがいい気になって家出したって、金稼げなきゃ犬死にするだけだよって。覚えてる?」
「は、い……」
「十万は最低のラインだ。アンタみたいな高校生に成りたての乳臭いガキでも、ここで生きてる奴はどんな手を使ってでも生きる為に稼ぐのさ。その体も平気で穢すし、汚物を売る奴だっている。やり方はどうであれ、アンタにだってできたはずさ。一週間もあれば、十万なんて簡単だったのに、アンタは一体何をやってたわけ」
「……」
「分かっただろ、美知。アンタにゃここで生きる資格はない。死にたくなきゃ、とっとと尻尾を巻いて『温室』に逃げな。それで、なまっちょろく生きていけばいいさ」
「っそれは嫌です!」
 私の悲鳴にも構わず、とんと二人分の小皿が置かれる。ふるり、と小皿の中で震えているのは珠樹さんが注文したらしい透明なところてんだった。細長い体にまとわりつくのは、ねっとりとした黒い蜜。その妖しい輝きが、珠樹さんの瞳に似ている。
 そう、私は珠樹さんが指定した分のお金を稼げなかった。これで稼げていたら珠樹さんは私をここの住人と認めてやろうと言ったのに、私は体を売る事も自分の汚物を取り出すこともできなかった。できずにただただ、小さな体を震わせて感情のない都会人の波を冷めた目で見つめることしかできなくて。
 だけど、家にも戻りたくない。あそこは檻だ、地獄だ、不自由だ。いい子にしていれば何とかなると思っていたのに、高校生になった途端、元々不仲だった両親のバランスが崩れ、私は彼らのおもちゃになってしまっていた。何故成績が上がらないの、友達と遊ぶ? 冗談じゃない、そんな暇があるなら勉強しなさい、頭でも良くないと、お前の取り柄は何もないんだから。降り注ぐ刃の言葉達に絡めとられた私は、ずぶずぶと沈んでいくばかり。
 ここがジャングルなら、あそこは深海。もがいてももがいても、呼吸ができなくて苦しくて死ぬだけ。
 こんなところで何か死にたくない。死ぬなら、もっと自由で私が私でいられる場所で死ぬんだ。そう決めて、私はありったけのお金と少ない荷物を抱きしめて這い上がったんだ。
「私、もう戻らないって決めたんです! あんなところに戻るくらいなら死んだ方がマシだって」
「死ぬ覚悟もないくせに」
「!」
 珠樹さんのあの目が、私を鋭く捉える。綺麗な、ところてんの上の黒蜜みたいな瞳。怖い。
「一週間もあったのに、アンタは金を稼げなかった、そして死ぬ事も選択できなかった。それだけで十分だ。アンタはここにいるより、あっちの地獄でもがいてる方がお似合いなんだよ」
「珠樹、さ」
「出て行きな。アンタの顔は二度と見たくない」
「……!」
 とうとう、恐れていた言葉が私に突きつけられた。
 珠樹さんに見捨てられた。恐ろしく感じながらも、その後ろ姿に憧れを抱いていて、彼女にだけは見捨てられたくない。そう思っていた人だったのに。
 震える私の前で、珠樹さんが静かに箸を取った。私の前に置かれたところてんを顎で示して、
「それが、最後の奢りだ。食ったら、さっさと行きな」
「た……」
「呼ぶな。もうアンタはここの人間じゃない。アタシの名を呼んでいいのは、ここに住む『仲間』だけだよ」
「っ!」
 お前はもう仲間じゃない。「よそ者」だ。
 はっきりとそう言われてしまった私に、珠樹さんが最後にくれたところてんを食べる余裕なんてあるはずもなく。
 私は珠樹さんに背中を向けて駆け出した。
 涙が止まらない。ところてんのような半透明な鼻水も止まらない。色んな人にぶつかった、痛い。けど、足は止まらなくて、どこまでもどこまでも走っていく、そんな気がした。
 珠樹さん、珠樹さん。
 ジャングルの奥深くで、悠々と荒れ地に足をつけて歩いていた憧れの人は、もう遠い。
 
 珠樹さんの言う通り、私は死ぬ勇気なんて持っていなかったから、結局『深海』である自宅に戻るほかなかった。たくさん殴られたし詰られたし、こんなことならば死んでおけば良かったと、何度刃物を手首に当てただろう。けれど、その鋭い刃が私の手首を切り裂くことはなく、逆に両親に見つかってひどく叩かれた。
 それを繰り返すうちに、次第に私は高揚していた気持ちが落ち着いていくのを感じた。それはぷかぷかと透き通った湖の上に浮かんでいるような穏やかな気持ちで、そこから私の本音がどんどんと零れ出した。私の、したいことをしたいと。
 気がついたら私は高校を中退していた。両親も離婚し、私は父と暮らすようになっていた。父は私にしていた暴力を詫びるかのように私のしたいようにしなさいと言い、そのためならば協力を惜しまないという言葉通り、大検を取ってとある美術の大学に通い始めた私の支援を積極的に行ってくれた。今では私の絵を誰よりも褒めてくれる。その支えを胸に、私はひたすらキャンバスに向かった。

 珠樹さんが最後に私を連れて来てくれた一軒の茶菓子屋さんに再び訪れたのは、私が成人して何年か経過した後だった。あの憧れの人の影は未だ私の頭の中から消えず、どうしてもここに再度訪れたいと思っていたのだ。
 藍色の暖簾を潜り、珠樹さんと座ったあの掘りごたつの席に着く。
「ところてん、黒蜜でお願いします」
 はいよ、とおばちゃんの柔らかな声が耳をくすぐる。あの時は珠樹さんの声しか聞こえなかったから、初めて聞いた。そっと盗み見たその顔は柔和で優しそうだった。
 珠樹さん。あの時は私、珠樹さんに見捨てられたと思っていたけれど、何年か経って、気づいたよ。本当は私に、あの過酷なジャングルで汚く生きることを諦めさせようとしていたんだよね。私の生半可な気持ちに気づいて、冷たく突き放していたのも、私にもっと強く別の場所で生きることを望んでいたから、だよね。
 なんて、ちょっと私の考え過ぎかな。でもね、そう思えないんだ。
 だって、珠樹さんは優しい人だから。
 とん、と目の前に透明な器が置かれる。
 ああ、あの時と同じ。黒蜜のところてん。
「いただきます、珠樹さん」
 あの日口にできなかった最後のところてんの分まで、味わおう。

「ごゆっくり」
 低いソプラノが気まぐれ風のように私の耳をなぞった。
 はっとして顔を上げて厨房の方へ目を向けると、私に声を掛けたその人は真っ白な長髪を揺らして、するりと視界から消えていった。

先輩と夏目漱石

※ケータイ小説についての話題が出てきますが、左記のジャンルを貶す意図はありません。
昔は私もファンタジー系をよく読んでたりしました。


「もしかして、来栖くんじゃない?」
 仕事の帰り道の、小雨の中のバス停留所にて。
 振り向いてみたら、そこにはパステルイエローの傘を差した血みどろの女が一人陽気な笑顔を浮かべて立っていた。
 ……ああ、違う違う、血みどろは僕の妄想。直前まで見ていたホラー小説のせいだ。
 もう一度よく見て。黒髪ロングに白いスーツの女性。チャーミングポイントは笑った時に見えた白い出っ歯。パステルイエローの傘が彼女の笑顔を眩しく照らしているように見える。
「……えと、蓮元せんぱい、ですよね。K大の……」
「そうそう! わー、久しぶりー! 相変わらずもやしっこだねー、ちゃんと食べてるー?」
 蓮元せんぱいにぐりぐり頭を撫でられて、つむじが少し痛んだ。
 ああ、でも懐かしいな、この感覚。
 蓮元せんぱいは僕と同じK大に通っていた一つ上の先輩だ。日本文学のゼミで遭遇しては、当時からもやしっこで人と話すより小説を読むのが好きなコミュ障の僕をこうして構ってくれていた数少ない存在だった。
 せんぱいが卒業してからは一度も会ってなかったから、会うのは二年ぶりくらい、かな。なのに、僕の隣に立つ少し大人びたせんぱいは不思議と馴染んで、嫌な気が全然しなかった。
「やー、来栖くんは相変わらず構いたくなるオーラが出てるねー。それに小説と相変わらずお友達だし」
「まあ、小説がないと落ち着かないところはありますけど」
「そうそう、君のお陰でね、私も小説を読むようになったんだよねえ。今でもお勧めしてくれた夏目漱石の『猫は我輩である』は私の中のバイブルだかんねっ!」
「せんぱい、『我輩は猫である』ですよ」
「ありゃ、そうだっけ」
 なはは、間違えたー、と明るく笑うせんぱい。
 本当に今でも小説を読んでいるのだろうか、すごく怪しいところだ。
 せんぱいは日本文学ゼミに所属していながら、小説というものを読んだことがなかった。どうやらゼミの先生が全体的に緩くて参加さえすれば単位を安易にくれるところがあるから、というだけで入ってしまったらしく、僕が入ったばかりの頃もよく寝ていたっけ。最終的には先生も起こすのを諦めて、せんぱいの寝言をBGMにゼミの授業を進行したこともあったものだ。
 それでも、卒業論文のときはすごく悩みに悩んでいたせんぱい。
 僕が勧めた夏目漱石の本をボロボロになるまで読んで、提出期限当日まで頑張っていた姿はよく覚えている。
『やった! 勝った、勝ったよ、来栖くん! 私はボス・夏目漱石に勝ったのよ!』
 提出を終えたせんぱいが嬉しそうに僕の周りを回る。まるで昔暇つぶしで読んだRPGゲームのノベルズの主人公のように、世界を混沌に陥れていた魔王を倒したかのように宣言するせんぱいに、僕はひたすら苦笑が止まらなかった。

「ところでせんぱい、最近は何を読んでるんですか」
「うーんと……ケータイ小説?」
 いきなり専門外のジャンルを言われた。ケータイ小説は斬新過ぎるようで、「ケータイ小説は文学ではない」って言われてたりもするから、僕は全く読んだ事がないけれど。
 何か面白そうなのがたくさんあるんだよねー、と真っ白なスマートフォンを操作しながらお勧めの小説を見せてくれた。
「『絶対本命彼氏』……何だか改行ばかりで読みづらいんですけど」
「そかな? あり得ない展開が続いて面白いよー。お腹が捩れるくらい笑えるからさ」
「……小説紹介に『切なくて泣けるラブストーリー』ってあるんですが……」
「あ、ホントだ、あはは」
 あはは、ってせんぱい……。それにしてもケータイ小説をまじまじと読むのは初めてだけど、やっぱり文庫本の方がいいな。こう、手に持ったずっしり感がないと落ち着かないし、指で捲る感覚も慣れない。内容は、何とも言えないけれど。
「僕はやっぱりアナログでいいです。ケータイもインターネットは使わないので」
「そっかー。でもそうだね、君と言えば鞄に三冊は文庫本を常備してるレトロな文学少年だし、スマホでげらげら笑う姿は似合わないかもだね」
「似合わないどころか、悪夢ですよ、そんなの」
 少し想像してしまったじゃないか。
「まー、それはともかく。うん、来栖くんに再会したら、久々にアナログ小説も読みたくなっちゃったな。『ねこわが』はホントに面白かったし、あれのお陰で卒業論文も書けたようなものだしね」
 『ねこわが』……ああ、それを言うなら『わがねこ』ですよ、というツッコミは胸の奥へしまっておく。
「何かお勧めある? できればねこわがと同じ、なつめんのがいいなー」
「なつめんってせんぱい、最早誰なんだか分かんないですよ」
「ええー、いいじゃない。私となつめんは卒業論文という一生に一度の絆で結ばれているのだよ」
 確か、卒論提出時は「ボス」とか「悪の大魔王」とか言ってなかっただろうか。
 えへん、と胸を張るせんぱいに苦笑いしていると、僕の後ろにちょうどバスが到着した。
「あ、来栖くん、このバスに乗るの?」
「はい」
「そっかあ、残念。私、今この近所に住んでるんだよねえ。来栖くんも近所さんだったら、これからなつめん談義でもしようかと思ったのになー」
 ちぇーと唇を尖らすせんぱいに、僕はふとあることを思いついた。ぺたんこのビジネスバッグから一冊の文庫本を取り出すと、躊躇う気持ちを抑えながらせんぱいに差し出す。
「? こころ?」
「はい。夏目漱石の、『こころ』です。一応切ない恋愛もの、の要素もありますが、『我が輩は猫である』とは少々テイストが違っていて、読み応えありますよ」
「ふぅん……?」
「せんぱいの感想が聞きたいです。ですから、またこの時間、この停留所でその感想を教えて欲しいです。今日は無理ですけど、また今度なら……談義する時間、作ります」
 すると、せんぱいの瞳が出っ歯と一緒にきらきらと輝き、僕が差し出したその本を大事そうに胸に抱きしめた。
「うんうんっ! 読む読む、読んじゃう! 一晩で読んじゃうから!」
「せんぱいの読書ペースからして、それはないですよ。一週間くらい時間空けませんか」
「やだやだ、来栖くんに早く感想伝えたいし! 明日にでも」
「いや、せんぱい、無理でしょ」
「……三日! 三日で手を打とう!」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫っ! えへへ、何か大学時代に戻ったみたいで楽しいなあ。来栖くんとのなつめん談義、私のゼミでの一番の思い出だったから、またこうしてできるの嬉しいな」
 そんな嬉しい言葉を明るく言ってくれるせんぱい。僕なんかを気に入っているのはどうかと思うけれど、その懐の温かさは確かに、僕にとってもいい思い出なわけで。
 冷たい雨が、一瞬にして温かなシャワーに切り替わったような、そんな不思議なぬくもりに包まれているような気分だ。
「じゃあ、せんぱいの健闘を祈りつつ三日後に」
「オーケーオーケー! なつめんと久々に向き合ってくるよ」
 じゃね、と片手を挙げて、パステルイエローの傘をくるくる回しながらせんぱいが遠ざかっていく。ゼミのハリケーン、なんてあだ名がついてたけど、本当にせんぱいは僕にとってイレギュラーな人だ。本の世界に閉じこもっていた僕に嵐のように現われて、それまで停滞していた人との繋がりを持たせてしまったのだから。
 バスの運転手さんがいつまでも乗り込まない僕に「乗らないんですか」と声を掛けて来た。そうだった、と慌てて入り口の階段を踏み出した僕に、ぽん、と軽い衝撃が。

「来栖くんっ、メアド教えてっ! 忘れてた!」
 振り向くと、向日葵のようなパステルイエローの傘が一つ。
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