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ふたりぼっちハピネス(※不定期更新/最終更新日:11/21)

※ねこみみっこと夫婦でほのぼのしてるのが書きたいという衝動で書いてます。ので荒っぽい仕様。
更新したら雑記でお知らせします。
「猫人」と呼ばれるミサオと人間のキイチロウのお話。



1
「おはようございます、キイチロウさん」
 ゆさゆさと心地よいリズムと共にちりん、と涼しげな音色が寝起きの耳に流れ込んで来た。その和やかな音色を聞くと、僕は自分がこの世でひどく幸福な人間なのだと実感する。誰かが傍にいる、ささやかな幸せ。それは「普通」とはかけ離れた生活ではあるけれど、幸せは幸せだ。
「もう、キイチロウさん、起きてるのは分かってるんですよう」
 ふにふに、とくすぐったくて柔らかいものが僕の頬をノックする。その彼女の愛らしい動作に唇を緩めて、その愛しい顔を見る為に瞼を上げた。
「おはよう、ミサオ」

 彼女、ミサオと暮らし始めて二ヶ月目。
 二ヶ月前、僕もミサオもお互いどん底に足を突っ込んでいて、光のない世界に閉じこもっていた。僕は信頼していた人からの裏切り、リストラで、ミサオは最愛の恋人を失い、独りぼっちのままこの世から消え去ろうとしていた。
 そんな崖っぷちで、僕らは互いの存在に気づいて。
 さらに互いの欠けた部位がぴったりくっついたことで、僕らはお互いを欲した。

「ほら、キイチロウさん、食べてくださいな」
 ミサオが寝ぼけ眼でワイドショーを映すテレビを見つめる僕を急かす。
 今日はワカメのみそ汁にサバの照り焼き、彼女の母親の味だと言う青菜のおひたし、そして玄米。和風料理が得意な彼女の定番朝メニュー。
 今日も僕に速く食べてもらいたいんだろう。そんな彼女のわくわくする気持ちに反応してゆらゆら揺れる、割烹着下から覗く白い尻尾。ちりんちりん、と鳴っているのは、その尻尾の先に付けた「結婚指輪」代わりの白い鈴だ。

 ミサオは「猫人(びょうれん)」と呼ばれる猫と人の混合種だ。その歴史は謎に包まれていて、何故彼らが誕生したのかまだ解明が進んでいない。猫の耳に尻尾などの特徴から差別などの問題もあったものの、現在は一応「ヒト」に分類されている。
 けど、彼らと僕らヒトの結婚は現在の法律で認められていない。もし子どもを授かっても、遺伝的に異常を持つ可能性が高いためだ。だから「猫人」は「猫人」同士としか恋愛も結婚もできない。それが当たり前の世の中だから、僕らは誰にも祝福されないまま結婚した。お互いの両親に黙ったまま、数少ない友人も騙してまで、一緒になったんだ。
 籍を入れる事はできない。子どもを授かったとしても、安易に病院に行けない。
 それどころか、夫婦らしく寄り添って歩く事さえも、本来は憚れる。
 それでもミサオは普通のヒトを装い、その純白の耳や尻尾を服の下に隠すという苦行を強いられながら、夫の僕と常に行動を共にしたがる。そのいじらしさに、隣を歩く僕はいつも鼻の奥がつん、とする。
「キイチロウさん、今日のアルバイトの終わりはいつも通りですか?」
「ああ。今日も時計塔で待ち合わせしよう。そして君に会えなかった時間分、とびきり素敵なデートをしようじゃないか」
 僕がからかうように提案すると、彼女は丸っこくて青い瞳を細めて嬉しそうに頷いた。
「はいっ、わたし、楽しみにしてますね」

「ずっといっしょ」あのどん底の闇の中で、僕らはそう約束したから。

(13/5/31 更新)

2

 彼女の足が唐突に止まったのは、とあるショーウインドウの前だった。僕同様に両手にぱんぱんのスーパーの袋をぶら下げ、その愛らしい青い瞳を熱心にショーウインドウ先に煌めくものに向けている。
「ミサオ?」
「……」
「ねえ、ミサオってば」
「あっ」
 僕がその小さな肩を叩いて呼びかけると、まるで悪い事をしでかした子どものように肩を縮こまらせて、その小さな眉を下げて僕を見上げてきた。
「ご、ごめんなさい、キイチロウさん、私」
「分かってる、このドレスを見ていたんだよね。いいんだよ、ゆっくり見て。……そっか、六月だからブライダル特集で出てるんだね」
 ショーウインドウの華やかなウエディングドレスは、男の僕の目から見ても眩しく、思わずため息を吐いてしまうほど美しかった。最近は様々な形態のドレスがあるようで、見れば見る程迷ってしまいそうだ。でもやっぱり、どのドレスにも「トクベツ感」が漂っている。
 と、ドレスに見入っていた僕の腕をくいくいと控えめにミサオが引っ張った。
「ミサオ? もういいのかい」
「はい。見ていたら……ちょっと悲しくなってしまったので」
 早く行きましょう、と彼女が僕よりも先に歩き出したので、慌ててその小さな背中を追いかけた。
 隣に並んで歩いてみると、彼女の横顔が切なげな色を浮かべているのが見えて、僕もつられて悲しくなった。
 僕らは夫婦だけれど、人と猫人という世間では認められない関係だから、堂々と戸籍を入れる事も、結婚式を挙げる事もできない。せめてドレスだけでも着せてやりたいけど、二人でお店に入ったらいつ僕らの異端な関係を人々が白んだ目で見てくるかもしれない。かと言って、ミサオ一人に着てきてもいいよ、と言っても彼女はうんと言わないだろう。独りぼっちの花嫁さんは寂しいし、僕自身もミサオの花嫁姿は見たい。
 現実の辛さに頭を悩ませる僕の目に、とあるものが映った。その途端、あるひらめきが浮かぶ。
「ミサオ、僕忘れ物を思い出したから、時計塔のところに行って待っていてくれないか」
「え、ええ、いいですよ」
 驚きながらも承諾してくれた彼女に微笑みを残すと、僕は彼女に見つからないよう、目的地に向かって走り出した。

 目的のものを両手一杯に抱え、スーパーの袋を両腕に引っ掛けた僕は、周りから一斉に視線を集めながら何とか約束の時計塔に辿り着いた。その真下で素直に待ってくれていたミサオが僕に気づくと、その目がまん丸に見開かれた。
「キイチロウさん、それ……きゃっ」
 彼女がきゅっと目をつぶるのにも構わず、僕は胸に抱えてたそれをふわりと彼女の上に振りまいた。ほわん、と香るその匂いに彼女がぱちくりと目を開けて、満足げに笑う僕をきょとんと見つめた。
「キイチロウさん、これ……」
「綺麗だよ、ミサオ」
 真っ白なツツジの花を頭や肩、薄手の白いカーディガンに鏤めたその姿は、まるでショーウインドウのウエディングドレスを着ているかのように眩しかった。傍を通りかかった、母親と手を繋いだ男の子がミサオを指して「お姉ちゃん、きれい」と零したのを見て、僕はその子ににっこりと微笑みかけた。
「綺麗だろう、僕のお嫁さんなんだ」
「っキイチロウさん……」
 彼女の小さな手が、僕のジャケットの端をちょこん、と掴む。覗き込んだその顔はこれ以上にないくらい赤く染まっていたけれど、嬉しそうに綻んでいて。
 僕はまた一つ、彼女との幸せの欠片を手に入れたような、そんな気がした。

(13/6/7 更新)


3

 冷たい世界にひとり、取り残されてしまったかのようで。
 あのひとを失ってからの自分のことは、曖昧模糊で途切れ途切れにしか思い出せない。

「ミサオ姉さん、もう止めて」
「……」
「姉さんっ」
 弟のソラが私から「それ」を取り上げようとすると、私は癇癪を起こして泣き叫んだという。家族はみんな私が暴れないように「それ」を持たせたままにしてくれていたけれど、ソラはきっと「それ」を抱く空虚な私が許せなかったんだと思う。私が何度暴れても、「それ」を取り上げようとすることを止めなかった。
「姉さん、しっかりして。あの人はもういないんだ」
「……」
「お願い、元の姉さんに戻ってよ。こんな姉さん、あの人だって望んでいなかったはずだ」
「……」
「ミサオ姉さん……僕が守るから、だからっ」
 私を抱きしめるソラのぬくもりだけは、ちゃんと覚えている。
 あんなに小さかったあの子は、私をすっぽり覆える程に大きく逞しく成長していて。小さい頃、親に代わってよく面倒を見ていた姉として、嬉しかったなあ。それでいて、親よりも口うるさかった私の傍にずっといて、いつも和ませてくれていた。
 あの人と出会う前も、あの人が死んでからも、ずっと。
 ソラは最後まで私のことを慕ってくれていた。

 私は、そんなソラのことを結局裏切り続けてしまったけれど、今でも愛している。世界で何処を探しても、私の弟はソラだけだから。たとえ、ソラがヒトと結ばれた私を嫌悪していても。
 あなたの幸せを、あなたのいない世界で願い続けるから。


「ーーミサオ? どうかした?」
 キイチロウさんの怪訝そうな声で、私はようやく我に返った。戸棚に仕舞っていた家族の写真を見ていたら、つい物思いに耽ってしまっていたらしい。
 それはまだ私たち姉弟が幼い子どもの頃、家族と映した写真。結局、これだけしか持ってくることができなかったから、あの逞しい弟の姿はあの悲しい思い出と共に曖昧になっていってしまっている。もう一度会えたら嬉しいけれど、それはできない。私は、キイチロウさんを選んだんだから。
「ううん、何でも無いの。すぐ、ご飯にするね」
 私は戸棚にしっかり鍵を閉めると、一番愛おしい人に向き直った。

(13/6/14 更新)

4
猫人(びょうれん)の結婚の証は、指輪ではなく鈴である。それをお互いの尾に括り付けてその涼やかな音色を響かせることで、相手への愛を示すのだと言う。独特の風習として度々テレビ等で取り上げられていたから、ミサオと結婚すると決めた時、僕も彼女には指輪ではなく鈴を贈ろうと決めていた。
「ミサオ、君に似合う鈴を一緒に買いに行こう」
 僕の誘いにミサオは白い頬を桃色に染めて喜んだが、いざ買いに行く日になると、何故か浮かない顔でため息を吐いていた。その日はお互いの記念日でもあり、鈴を買いに行く他にたくさん祝おうと予定していたのに、何故ミサオの表情が曇っているのか、僕は不思議でしょうがなかった。
「ミサオ、どうかしたのかい」
「っ、いえ、だ、大丈夫。いきましょう、キイチロウさん」
 僕に心配かけまいと笑みを浮かべて手を繋ぐミサオだけど、歩き始めるとやっぱり表情に陰りがあって。僕は徐に彼女の手を引いて、シャッターが閉まっている店先のところまで走って行った。その日はしとしとと小雨が降っていたから、彼女のお気に入りの水色のパンプスはすっかり水気を吸っていた。
「き、キイチロウさん、急にどうしたんですか」
「ちょっと、休憩」
「休憩、ですか」
 小首を傾げて傘を畳む彼女に、僕はさり気なく尋ねた。
「ねえ、どうしてそんなに元気がないの?」
「え、そ、そんなことないですよ?」
「……君はそう言うけど、僕にはそうは見えないんだ。何か、君の気持ちを陰らせるものがあるのなら、僕が何とかしてあげたいんだ」
 頼む、と彼女の指をきゅっと握りしめながら懇願すると、彼女が諦めたようにため息を吐いた。
「……キイチロウさんには、隠し事、できないですね」
「元々隠し事なんて、つれないことしないでくれ。ミサオのことなら何でも知りたいんだから」
「……そう、ですね。貴方にはお話しなきゃいけないことでもありますし」
 彼女が打ち明けてくれたのは、一つの真っ白な鈴のこと。
 その日も彼女の白いワンピースの中にこっそり忍ばせてあって、大事そうに花柄のハンカチに包まれていた。
「これは、『あの人』が持っていた、結び鈴、なんです」
「結び鈴……つまり、婚約の」
「はい。私に渡すつもりだったんでしょう。けど、結局それは彼の死後、遺品として私のもとにやってきました」
 長い睫毛を揺らし、ミサオが白い唇を歪める。
「これが、ううん、これだけが私の全てでした。彼が遺してくれた愛の証だから。だけど、それは同時に私に冷たい足かせとなって、真っ暗な世界に閉じ込めるきっかけにもなってしまった」
「……」
「キイチロウさんと出会って、この鈴から思いが離れている時もずいぶん増えました。あなたから鈴を貰えると聞いて、すごく嬉しかった。けれど、同時にこの鈴が……あの人の思いが私を責めるんです。ミサオ、お前は彼を愛していないのかって」
 そんなことない。ミサオは首を振って訴える。僕と歩む道を選んでも、亡くなった彼を思わずにはいられない。そのことで僕を不安にさせるんじゃないかと訴えたこともあったけど、僕はそれでもいいと答えた。けれど、この結び鈴の存在が、再度彼女を不安にさせてしまったんだろう。僕と彼、どちらに対しても不誠実ではないのかと。
「鈴を手放すことも考えました。けど、私を最期まで思い続けてくれた彼の魂を捨ててしまうような、そんな気がしてしまって」
「……そうか」
 僕は雨空を見上げ、顔も知らないミサオの「思い人」のことを考えた。
 僕が彼だったらどう思うか。もちろん、ミサオが他の人と一緒になるのは寂しいけれど、彼女に幸せになってもらいたいのなら……そして、ミサオ自身が納得できる形にするにはどうしたらいいのだろうと。
 と、僕は空から降ってきたその思いを唇に乗せた。
「ねえ、ミサオ。その鈴を僕にくれないか」
「え」
「僕から君へ結び鈴を贈るとき、君からも僕に指輪を渡すことになるだろう。その指輪の代わりに、君の……君の大切だった人の鈴を僕に贈って欲しいんだ」
「キイチロウさんに、これを……でも」
 戸惑うミサオに、僕は屈んでその愛らしい瞳を覗き込んだ。
「君はこんな僕と歩んでくれると決めてくれた。その代わりに、僕も君の全てを受け入れると、約束したよね。君の中にはその大切な存在が根強くある。それはきっと、これから先も君の中から消えることはないと思うんだ。だから、君の隣を歩むものとして、君の彼への思いを、僕もこの中に持って生きて行きたいんだ」
「キイチロウさん……」
「君が大切に思う人は、僕にとっても大切なんだ」
 そっとその鈴を持つ彼女の手のひらに自分のそれを重ねると、りん、と透き通った音色が響き渡った。
「……きっと、あの人も、それを許してくれると思います。……彼もかつて、貴方と同じ事を言ってくれたから。君にとっての大切な人は、僕にとっても大切だって」
「そう。きっと、彼と僕は似たもの同士かもしれないね」
「……はい」
 雨は徐々に弱くなっている。止んだら行こうかと囁くと、彼女ははにかみながらゆっくりと頷いてくれた。

(13/06/21更新)

5

「はくちゅん」
 僕が部屋に入ると、途端に布団の中のミサオがくしゃみをした。おでこに濡れタオルを乗せたミサオの顔色は相変わらず良くない。小さな唇から溢れる荒い吐息があまりにも苦しそうで、僕は持っていたお盆を近くのテーブルに置くと、そっと彼女の頭を撫でた。
「ん、キイチロウ、さん?」
 ぱち、と彼女の金色の瞳が開かれる。
「ああ、ごめん、起こしちゃった?」
「いえ……眠るのにも飽きてしまったのでちょうど良かったです……けほっ」
「だめだよ、寝てなきゃ」
 体を起こそうとして咳き込んだミサオの体を慌てて布団に押し戻すと、目尻に涙を浮かべながらもぞもぞと大人しく布団の中に戻った。
「はあ……本当にごめんなさい、キイチロウさん……折角のお休みなのに私なんかの看病をさせてしまって」
「むしろ僕が休みの時で良かったじゃないか。風邪を引いたミサオを一人で家に置いて仕事するなら、僕はいくらでもミサオの看病をするよ」
「……ありがとう、キイチロウさん」
「それより、お腹空かない? お粥作ったから食べてよ」
「え、キイチロウさんが、ですか……?」
 器を乗せたお盆をミサオの前に差し出すと、ミサオはその瞳をまん丸にして僕と粥の入った器を見比べる。
「キイチロウさんって……お料理できましたっけ?」
「料理をしたのは今回ので三回目かな?」
「ええっ」
「大丈夫、焦がさなかったし変な味付けもしてない。それにミサオは猫舌だからちゃんと冷ましてもあるよ。それとも僕の料理じゃ不安かい?」
「い、いえ……」
 ぷるぷると頭を振る彼女だけど、不安そうに眉を寄せている。まあ、そうだよね。僕は料理以外でも不器用だからすぐに怪我をするし。そのせいで家事一切は全部ミサオに任せている状態だ。
「大丈夫、僕を信じて、ミサオ。ほら」
 蓋を開けて中身を見せると、ミサオはスプーンを握る代わりに蓋を掴んだ僕の手を引き寄せた。
「わ、ミサオ」
「やっぱり、こんなに怪我をしてるじゃないですか……」
 唇をきゅっと突き出してミサオが僕の両手指全てに巻かれた絆創膏を指す。
「あはは……やっぱりミサオみたいに上手くいかなくてね……でも、ほら、お粥はちゃんと綺麗にできているだろう?」
「確かに、お粥はとっても美味しそうだけど……」
「ね、せっかく作ったんだ、食べてよ、ミサオ」
「もう、キイチロウさんったら……」
 ミサオが呆れ顔でため息を吐く。だけど思い直したようにスプーンを手に取ってくれた。そっとお粥を掬い取るとふーっと小さく息を吹きかけて小さな唇を開く。
「……美味しいです。熱くないし……」
「良かった~……頑張って作った甲斐があったよ」
 安堵して頬を緩める僕に、ミサオはもぐもぐとお粥を咀嚼しながらまた絆創膏だらけの僕の手を取った。
「でも、今度は無理して料理しちゃダメですよ? しても、私の目の届くところでやってくださいな」
「うん、そうだね……つくづく僕は料理に向かない人間だと実感したよ」
「……でも、本当に美味しいから、練習すれば上手くなるかもしれませんね。キイチロウさん、一生懸命だし……そうだ、じゃあ今度の金曜日は二人でお料理を作りましょう? 元々その日はたくさんお料理を作る予定でしたし」
「金曜日? 何かあったっけ?」
 確かに翌日は休みだし、ミサオが一緒なら少し安心して料理できるかもしれないけど……たくさん料理を作るような日だったろうか。僕やミサオの誕生日でもないし、結婚記念日だってまだ一年も経ってないし……。
 首を捻る僕に、ミサオはにっこり笑ってカレンダーを指差した。
「ほら、今度の金曜日は二十二日でしょう? 十一月の二十二日は語呂合わせで『いい夫婦の日』なんです」
「……あ、ホントだ。全然意識しなかったから気づかなかった」
「私たち結婚記念日もまだですし、お互いの誕生日もまだまだ先だから、結婚してから何かお祝い事できないかなってずっと考えていて……そしたらお店の宣伝で『いい夫婦の日』だって聞いたんです。だからその日は美味しいものをたぁっくさん作ろうと思ったんですよ」
 にこにこと嬉しそうに語るミサオ。
 確かに結婚してから何かお祝いしたことは特になかった。ただミサオと共にいられるだけで僕にとっては十分だと思っていたから、そのことに関して特に考えたことはなかったけれど……ミサオがやってみたいことならば、僕もその喜びを共有したい。
「じゃあ、ベタだけど、ケーキでも作ろうか」
「ケーキ、ですか?」
「うん。僕、お祝いでケーキを食べるって経験がないからね。ちょっと憧れだったんだ」
「キイチロウさん……」
 ああ、そんな顔をしないでくれ、ミサオ。過去は消せないけれど、今の僕は君がいるから大丈夫だ。
 そんな想いを込めて微笑むと、僕はミサオの頭を撫でた。
「とびきり大きなケーキを作ろう。二人じゃ食べきれないくらいのサイズをね」
「……ふふっ、楽しそうですね。余ったらお隣さんにお裾分けしてもいいですし」
「ああ、それもいいかもね。普段貰ってばかりだから、こういう時こそお返ししなくちゃね。……それにはまず、君が風邪を治さなきゃ」
「っはい」
 懸命にお粥を食べ始めたミサオの横顔を眺めながら、僕は今度の金曜日、彼女と共に作るケーキを想像する。

(13/12/1更新)

6

「キイチロウさんは、働き過ぎなんです」
 僕の右脇からさっと銀色の体温計を取り出したミサオは、いつもより少し強気に目を吊り上げながらそう告げた。
「そうかなあ」
「そうです。ほら、体温計見て下さい。三十九度ですよ、三十九度。これはもう、神様が『今日はたっぷりおやすみなさい』と言っているのと同じ事です」
「うーん……今日のミサオはとっても頼もしいというか……ちょっと怖く感じるよ……」
「キイチロウさん」
「……病院の予約、取らなくちゃね」
「安心して下さい、さっき私が取りました。一時間後に来て下さいですって。私も一緒に行きますから、出発まで寝ていて下さいね」
「え、き、君も来るの?」
 つんと顔を澄ましながら体温計を救急箱に戻すミサオの言葉に、僕の声が思わず裏返る。するとミサオは「当たり前です」と僕の鼻を突いた。
「弱っているキイチロウさんを放っておけません。ふらふらしてその辺りの電柱にぶつかって気絶されたら大変ですから」
「ひどいなあ、そんなドジはしないよ」
「でも心配ですから」
 彼女が絞った濡れタオルが額にそっと乗せられたかと思うと、そのまま視界を彼女の温かな手のひらで覆われた。
「とりあえず、今は寝て下さい」
「……落ち着かないな、平日に休むなんて」
「たまにはいいじゃないですか」
 気持ち、ミサオの声が弾んでいるように感じるのは、熱のせいだろうか。
 この暮らしを成立させるために基本的にずっと働き詰めだからなあ、しかもここのところ、仕事を覚えてきたせいでたくさん頼まれごとをされるようにもなって、残業も増えた。ミサオに構う暇がなくなっていたのは事実だ。
「キイチロウさんが私との生活の為に頑張ってくれているのは分かっています。けど、たまには……病気の時くらい、キイチロウさんの時間を私に独占させてくれませんか?」
「……そう、だね」
「……」
「……ねえ、ミサオ、顔が見たいから、手、外してくれる?」
「ダメです。私、今すごく恥ずかしいことを言って顔が真っ赤になってますから」
「そういうミサオの顔、僕すっごく見たいんだけど」
「……キイチロウさん、意地悪です。早く、寝て下さい」
「嫌だ。君が見せてくれるまで寝ないよ」
「もう」
 ミサオの焦った声がどことなく色っぽくてどきどきする。これも熱のせいだろうか。
 結局僕はそのまま眠ることなく、膨れっ面の彼女に「ばか」と言われながら病院へ向かったのだった。その時の僕の顔と言ったら、病人とは思えないくらいだらしなく頬を緩ませていたとミサオが言っていた。

(14/2/2更新)

7

 温かくて優しい太陽の光をたくさん取り込んだふわふわのお布団を取り込み、お部屋に戻ると、読書をしていたキイチロウさんがこてんと琥珀色のちゃぶ台に頬を付けてすやすやと眠っていた。
「……まあ」
 思わず大きな声が漏れてしまったので、慌てて手で押さえつつ、そっと眠るキイチロウさんの顔を覗き込む。好きな作家さんの新刊がようやく読めると朝から喜んでいたキイチロウさん。わたしのお昼ご飯の準備が整いましたよ、の声にも反応せずお話にのめり込んでいた彼だったのに。本は残り数ページを残した状態でキイチロウさんの右手によって留められていた。
「無理も、ないか」
 キイチロウさん、最近アルバイト先が忙しいんだって言ってた。人手不足だし、今は商戦の時期だからって。身内が経営する、本当に限られたお客さんしか来ない喫茶店でしか働いたことのないわたしにはその大変さが理解できない。それはちょっぴり悲しいことだけど、キイチロウさんがここまで頑張ってくれるのはわたしとの生活を維持するためだと知っているから、わたしはそんなキイチロウさんのために温かい家庭を維持するんだ。
 でも、大好きな本を読み切る前に眠ってしまうなんて、相当疲れが溜まっている証拠かも。
 ううん、以前からキイチロウさんが疲れているのをわたしも感じていた。だから本人に言ったこともある。疲れてない? たまには休んだっていいんじゃないのかなって。
『僕が疲れてるって? そんなことないよ、これくらいで根を上げてちゃ働き手として失格だよ。僕は大丈夫、心配しないで、ミサオ』
 あんなこと言ってたのに……やっぱり無理をしてたんだね、キイチロウさん。
 何事にも真面目で誠実な彼は、アルバイトとはいえ、きっと色んな人にとって欠かせない存在になっているはず。現にわたしだってキイチロウさんがいなければダメな人の一人だ。誰にも迷惑かけないようにと一生懸命になる気持ちは分かる。だけど。
「わたしの前では、疲れてる姿をもっと見せてくれてもいいのに……」
 ぽつりとわたしが呟くと、キイチロウさんがううん、と身じろぎをした。一瞬起きてしまったのかと思ったけど、また再び安らかな寝息を立て始めたのでほっとする。
「……ふふっ」
 疲れがどのくらいあるのかは心配だけど、普段見せないキイチロウさんの寝顔、見られて嬉しいな。わたしよりずっと大人で凛々しいイメージの彼だけど、寝ている時は無邪気な子どもと一緒。キイチロウさんとの子どもも、やっぱりキイチロウさんに似て欲しいなあ、なんて、まだそんな未来は見えないけど。
「ゆっくり休んで下さいね、キイチロウさん。美味しいご飯、今日も頑張ります」
 眠る彼にそっと囁いて、わたしは持っていたぽかぽかのお布団を彼に掛けてあげた。これで更にいい夢が見られますように。そんな願いを込めて彼の額を撫でると、ふっと彼の唇に微笑みが浮かんだ。

(14/11/21更新)
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