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えびすさまのおきにいり

あけましておめでとうございます(遅)


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「え……え、えびちんっ!」
 引き締まった冬の早朝。いつもと何ら変わりのない住宅街を横断している途中で、くしゃみにしては独特すぎる擬音を聞いて、恵理は迷いなく振り向く。その彼女の数センチ先で幼なじみの少女が小さな鼻を真っ赤に染めてぐずぐずと明らかに不調な音を出していた。
「あぅ~、気づかれちゃったぁ……えびちんっ」
 ぴょこんと結んだ桃色のマフラーの端と一緒に飛び跳ねる彼女が隣にやってくると、恵理はやれやれと肩を竦めながら唇を開いた。
「おはよう、依子(よりこ)。相変わらずね」
「う~……後ろからこそ~っと近づいて、今日もクールな恵理ちゃんを驚かせようと思ったのにぃ……えびちっ」
「ほら、鼻拭きなさいな。女子高生の顔とは思えない顔になってるわよ」
 頬を赤らめてくしゃみを連発する依子に恵理はポケットティッシュを取り出して、彼女の鼻先を軽く拭ってやる。それに対し依子はえへへとふくよかな頬を緩めて微笑んだ。
「あ、ありがと、恵理ちゃん……ぐしゅ」
「お正月早々無理して早起きして初詣に行ったせいね。ただでさえ風邪を引きやすい体質なんだから、あんな無茶はもうダメよ」
 恵理がそう窘めると、依子は拭いてもらったばかりの鼻先を指でつつきつつふっくらとした唇を尖らせた。
「だって、恵理ちゃんとどうしても初詣行きたかったんだもん。今年は高校生活最後だし、何より受験だよ? 大事な一年になるんだから、しっかりカミサマにお願いしないと……えびちんっ」
 再びくしゃみをもらした依子に、恵理はため息を零しつつ持っていたポケットティッシュを丸ごと彼女に放った。
「足りないと思うけど、使いなさいな。あと、ティッシュはいい加減貴方の場合常備しなさいと言ってるでしょう」
「ごめ~ん……用意してたんだけど思い切り机の上に置いてきちゃって……くしゅ」
「……貴方の場合、受験の合格祈願だけじゃなくて、忘れ物防止の祈願も必要ね。私の祈願だけじゃ叶ってないみたいだから、貴方も今度ちゃんとお祈りしなさいな」
 呆れ返った声で恵理がそう告げると、ティッシュで再び鼻を拭き始めた依子が動きを止めて瞳をまん丸に見開いた。
「え、恵理ちゃんっていつもあたしの忘れ物防止祈願してくれてるの?」
「当たり前でしょ。貴方と初めて初詣に行った、小学校一年生の時から欠かさずお願いしてるのよ。残念ながら、一度も叶ったことはないけれどね」
「あ~、多分それはあたしの横にいつも恵理ちゃんがいてくれるからだと思うな~……ぐしゅ」
「私がいるから?」
 きょとんと目を瞬かせる恵理に、鼻をちーんとかみながら依子がにっこりと笑って頷く。
「うん、だってあたしが忘れても恵理ちゃんがちゃーんとフォローしてくれるから、カミサマもそれなら大丈夫って忘れ物防止の代わりにいつもあたしの横に恵理ちゃんを置いてくれてるんだよ、きっと!」
「……なるほど、小学校も中学校も高校も、一度も貴方と別のクラスにならなかったのはカミサマの策略という訳ね」
「そうそう! だから恵理ちゃんのお願いがそう言う形で現れてるんだろうなーってあたしは思……えびちん!」
 子どものように無邪気にはしゃぐ依子の言葉を、また独特のくしゃみが遮る。
「……ほんと、今年も相変わらず貴方の『恵比寿様くしゃみ』は絶好調ね」
「えへへ、そうでしょそうでしょ? ぐしゅ」
「別に褒めてないわよ。いくら縁起の良さそうな響きをしていても所詮は病原菌を孕んだ吐息だもの」
「うー、恵理ちゃんひどいぃ~……でもでも、あたしのくしゃみ聞いて告白に成功したとかテストでいい点とれたとか、そういう話もあるんだからっ! 昔からあたしの隣にいた恵理ちゃんなら知ってるでしょ?」
「ただの偶然よ。それに、それなら一番近くにいる私にご利益がないとおかしいじゃない。残念ながら、そう言ったご利益は一度もないのだけれど」
「あるよ~、ご利益~」
「へえ、どんな?」
 挑発的に笑って尋ねる恵理に、依子は貰ったティッシュを大事そうに胸に抱きしめて彼女の隣に並んだ。
「いつまでもずーっと仲良しでいられるっていうご利益! 昔からのあたしと恵理ちゃんのお願いごとが、今も継続して叶ってるじゃない」
「それ、全然ご利益じゃないから。むしろ疫病神的な何かじゃないのかしら」
「えーっ、ひどいよぅ、恵理ちゃん!」
「冗談よ」
「顔が全然冗談言ってるように見えないよぅ~ふぁっ……えびちんっ」
 拗ねながら再びくしゃみをする幼なじみを見つめ、恵理はくす、と笑い声を立てつつその小さな頭を撫でてやった。
「仕方ないから、今年もちゃんと見ててあげるわよ。……来年一緒にいられるかどうかは、貴方の学力の向上に掛かってるんだからね」
「大丈夫っ、恵理ちゃんが丁寧に教えてくれるもん! ぐしゅ」
「……ほんと、人任せな恵比寿様ね」
「えへん」
「褒めてないから」
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幸福な少年

※お久しぶりです。タイミングを見失って留守状態ですみませんでした。

 一目惚れ、というのはこの年齢になってもあるものなのだと、本当に驚いた出来事だった。
 知人の付き合いで入り込んだ裏世界の入り口。そこで繰り広げられるのは、人間が人間を売るという気違い染みた、しかし暗黙の了解で許されていた闇の市場。
 私の目を引いたのは、その中でひっそりと佇んでいた人形のような彼だった。
「ソイツに目が行くとはアンタ、なかなかいい目をしているねぇ」
 彼の小さな後頭部を掴み、闇市の主がシンナーの臭いを飛ばしながらこちらに身を乗り出して来た。それに不快さを感じたが、目の前でじっと私を見上げる少年への高まる思いを無視できなかった。
「……幾らでしょうか?」
 私の問いかけに闇市の主が下卑た笑みを浮かべて金額を告げる。それはこの少年を買うには少々安い値段だと思ったのは、彼があまりにも綺麗に整った顔立ちをしていたからだろうか。
「まいど。ほら、こいつはアンタのもんだ」
 少年の後頭部を強く押して、私の方へ向けると、彼はこくりと頷いてこちらへ歩み寄って来た。彼の首に付いていた拘束具と繋がっている鎖のリードを闇市の主が私に差し出したが、私は受け取る代わりに彼の首輪を外してくれと告げた。
「オイオイ、折角手に入れた奴隷を逃がしちまうつもりかい、アンタ」
 主の訝しげな声と同時に少年も驚いたようにその美しいサファイヤの瞳を見開いて私を見つめる。
「そのような無骨な拘束具は、彼には似合わない、そう思っただけですよ」
 正直に思ったことを告げると、主は肩を竦めながら少年の拘束具を外してくれた。そこから現れた首もとはまだ白くて艶があり、拘束具の縁によって傷つけられたらしい新しい引っ搔き傷くらいしか見当たらなかった。売られて、まだ間もない少年だったようだ。
 私は戸惑いの色を隠せない彼の前にしゃがみ込み、にっこりと笑った。
「さあ、行こうか。光の世界へ」


「おはようございます、旦那様。食事の準備が整いました」
 朝の日課である読書に勤しんでいた私の部屋に、彼のーー凛とした声が響いた。
「ああ、分かった。……リン、寝室の清掃を頼んだよ」
「はいっ」
 健気に返事をして部屋に入って来たリンは、すっかり手慣れた様子でベッドメイキングを始めた。初めて来た頃は何をしていいか分からず棒立ちだったのが懐かしい。それもほんの数日だけのことで、仕事内容を完璧に覚えた後は使用人の中でも一番の働き者になった。どんな仕事でも進んでやるものだから、私もついつい彼に甘えてしまう。その代わり、まだ言葉遣い等は未熟だが、それも年相応が滲み出ていて、むしろ愛らしさを覚える程だった。
「リン、今日は出かける用事がないから君の勉強を見てあげられるよ。後で勉強道具を持って来なさい」
「えっ、で、でも……」
「ん? 何か不都合なことでもあるのかい?」
 俯いてしまったリンに首を傾げて尋ねると、何度か迷う素振りを見せながら本当に小さな声で彼が答えた。
「エリザベス様が……お許しにならないと……」
 ああ、ベスか。なるほど、私の留守中にまた彼に何か良からぬことを吹き込んだのだな。
 私より一回りどころか二回りも年の離れた妻の嫉妬深さにため息を吐きつつ、私は俯いたままのリンの頭に手を乗せた。
「リン、お前の雇い主は誰かね」
「そ、それはっ、もちろん、旦那様です」
 顔をぱっと上げて必死に答える彼を見つめ、私はゆっくりと彼の体に染み込ませるように言葉を吐き出した。
「そう、ベスは私の妻だがお前の直接の雇い主ではない。あくまでお前は私が雇った身なのだ。だから、ベスに何を言われようと、私が気にするなと言えば気にしなくていいんだ」
「旦那様……でも……」
「ベスはなかなか気性の激しい女だからな、お前が怯むのも仕方ない。だが、心配しないで。待っているからね」
 再度頭を優しく撫でると、リンは無邪気な笑顔ではい、と返事をしてくれた。

「パパー! リンいるー?」
 リンと二人、書斎で文学の勉強していると聞き慣れた慌ただしい足音と明るいソプラノが聞こえてきた。驚いて青い瞳を見開き固まるリンに私は苦笑しながら、やってくる小さな客人のために先にドアを開けてやることにした。
「やあ、エリサ」
 ドアの向こうから飛び込んで来たのは、私の最愛の娘のエリサだ。母親譲りの凛々しいエメラルドの瞳に触り心地のよいウェーブ掛かった金色の髪を肩まで伸ばし、頭に私が八つの誕生日の時に贈った純白のシルクのリボンを身につけていた。
「こんにちは、パパ! あっ、やっぱりここにいたのね、リン!」
 紅茶色のスカートを揺らして私の横から書斎の中を覗き込んだエリサが歓声を上げる。
 リンの方に視線を寄せてみれば、曖昧に微笑む彼の姿があった。
「こ、こんにちは、お嬢様」
「こんにちは、じゃないわ、リン! 大事な仕事を放り出して何してるのよ!」
 白い頬を風船のように膨らませ、私の横をすり抜けたエリサはそのままリンに詰め寄る。エリサの拗ねた顔を目の前に突きつけられたリンはおどおどと視線を私に向けながら、もじもじと体を揺らし始めた。
「ご、ごめんなさい、お嬢様……旦那様に勉強を教えてもらっていて……その……」
「ひどいわ! あたしとパパ、どっちが大事なの、リン!」
「……そ、それは……」
 リンの瞳に涙がにじみそうになったところで、私はようやくこの誰に対しても強気な娘を止めるために動いた。
「こらこら、エリサ。リンが困っているだろう、止めなさい」
「むーっ」
 エリサとリンの間に入り、膨れっ面の娘を窘めると、エリサは恨めしげに私を見上げた。
「ひどいわ、パパ、リンを独り占めするなんて」
「悪かったね、エリサ。しかし、ここのところ私の仕事が忙しくてなかなかリンの勉強を見てやれなかったものだからね、毎日リンと遊べるお前とは過ごせる時間が限られるんだ、今日くらいは許してくれないかい」
「だーめっ、ママがお出かけしてるんだから、中庭のテーブルでリンとお茶を飲むの!」
「おや、ママがいるとダメなのかい?」
「ダメ。ママ、リンのこと嫌いだもん」
 あからさまなエリサの言葉にリンの表情がすぐさま強ばる。その態度を見て、普段ベスがリンに対して冷たい態度を取っているんだと改めて実感させられた。育ちのいいベスは富の豊かな世界以外受け入れない気難しいところがある。だから最初、このリンを養子として迎え入れたいという私の言葉を即座に却下したのだ。
『その汚い身なりの子どもを自分の子と思えだなんて、この上ない屈辱ですわ』
 出来れば養子にしたかったが、妻の毛嫌いっぷりにそれを諦めざるを得ず、とりあえず使用人として雇うことだけは認めてもらった。それでもリンを普通の使用人と比べて寵愛し過ぎだと妻から釘を刺されることもあるが、こればかりは私も引けない。
 一目惚れした彼を見て、思ったのだ。私が守ってやらなければと。
「ねえ、リン。お勉強なんて退屈でしょ? あたしとお茶しましょうよーぅ」
「お嬢様……」
「リン、私はどちらでも構わないよ。お前が今したいこと、好きな方を選びなさい」
 その言葉にますますリンの眉が寄ってしまった。使用人は主の命令に従い行動する。その原則を刷り込まれたリンは自分の意志で物事を決めることに躊躇いを感じているのだろう。口惜しいことだ、養子として引き取ったのなら、こんな風に自分のしたいことを口にしにくそうにするような環境には置かなかったのに。
 ……仕方ない。エリサの機嫌を損ねて妻だけでなく娘からも風当たりが強くなってしまってはリンのためにならない。
「そうだ、リン、エリサ。ちょうど昨日貰って来た茶菓子があったんだ。ちょうどいいから私たち三人で食べないかい?」
「え」
「ほんとう?! パパ」
「ああ。ママはあまり好きじゃないマカロンをね。エリサは好きだろう?」
「好きーっ!」
 途端に機嫌を直した娘に心を和ませながら、戸惑うリンに向き直った。
「さあ、リン。お茶の時間にしよう」
「は、はい、分かりました、旦那様」

 この屋敷の中でエリサが一番お気に入りなのが、この中庭だ。妻の趣味である色とりどりのバラが咲き誇り、エリサの三歳の誕生日に与えた白いブランコもその美しい景観の一部となっている。
「ほら、リン。あーん、して」
 リンの瞳と同じ青のマカロンを小さな手で掴むと、そのまま彼の口へ押し付けるエリサ。それに対し再びリンが視線を彷徨わせ、私に救いの眼差しを向けて来た。
「あ、あの、ぼ、ぼくは……」
「リンはマカロンが嫌いかい?」
「い、いえ……食べたこと、ないだけ、です……」
 リンの返答に私より先にエリサが目を見開いてリンに詰め寄った。
「そうなの?! こんなに美味しいお菓子、リンは食べたことないの? 一度も?」
「は、はい、ごめんなさい……」
「なら、むしろ食べてもらいたいね。エリサと同じ物を好きになってもらえれば、エリサも私も嬉しいよ」
「そうよ、食べて、リン」
 私の言葉に何度も頷きながらマカロンを更に押し付けるエリサに、リンは恐る恐るマカロンの端に歯を立てて欠片を口の中に受け入れた。ゆっくりと咀嚼するその顔が見る見る内に緩んで微笑みに変わるのを見た途端、私は思わず彼を抱きしめたくなった。
 ああ、その笑顔だ、リン。
 一目惚れをしたあの時、私は君のこの笑顔を一番傍で見てみたくて君を買ったんだ。
「おいしい? リン」
「……はい、お嬢様」
「良かったな、エリサ」
 私の言葉にエリサがくすぐったそうに笑う。それにつられるようにまたリンが笑う。
 ああ、なんて素晴らしい一時だろう。まるで遥か昔に味わった初恋の味によく似た幸福感だ。
 妻が戻って来るまでのつかの間の時間だけれど、時折こうして娘とーー直接口にすることはできないが、息子のように思うリンとの時間を増やしていきたい。
「パパ、はい、パパにもマカロンあげる」
「ありがとう、エリサ。さあ、リンももっと食べなさい」
「はい」
 エリサにマカロンを口に運んでもらうリンの姿を、私は目を細くして見守った。

 ところが、その晩。
「ーーリン?」
 入浴後に小さくすすり泣く声に気がついた私が人気のない酒蔵の入り口へ足を運ぶと、そこで身を縮こまらせて俯いているリンの姿があった。リンの足下にある赤い絨毯には真新しい涙の跡があり、私が彼の顔を覗き込んだ時、その青い瞳からまた新たな雫が零れ落ちた。
「どうしたんだい、リン、こんなところで」
「あ……」
 私の声に驚いたように顔を上げたリンは慌ててしわくちゃになったシャツの袖で乱雑に自分の顔を拭う。けれどもその青い瞳が雫を落とすのは止まらず、当人も眉を寄せて苦しそうだった。
「……リン、こちらへ」
 リンの肩を抱き、私は酒蔵の扉を開けて彼を中に入れた。子どもにはあまり良くない環境だということは重々も承知だ。しかし、リンが泣いている理由として思い当たることに妻の彼に対する暴言があった。こんなところを見られたら、更に妻がリンに酷い言葉を浴びせるのではないかと思い、妻が寄り付くことはまずない酒蔵へ移動したのだった。
 慣れぬ酒の臭いに泣きながらも戸惑いを見せるリンに、私はしゃがみ込み、改めて問いかけた。
「リン、何があったんだい?」
「……」
「私には、言いにくいことかい? ……私はそんなに信用ならない人間かね」
「そ、そんなこと、ありませんっ」
 語尾を荒げてきっぱりとそう言ってくれたことが、ほんの少しだけ嬉しく感じた。
「私は誰にも告げ口しないよ。今、この時だけ、聞くだけだ。安心しなさい」
 怖がらせないようになるべくゆっくりとした口調でそう告げれば、ようやくリンが閉ざしていた口をゆっくりと開いた。
「……ぼくは、ぼくは……ダメな使用人、です……」
「どうして?」
「だって……こ、こんなに良くしてくれる旦那様やお嬢様に囲まれながら……家族のことが忘れられなくて……」
 再び嗚咽を零すリン。
 ……リンの家族、か。貧民層の彼らは生き抜くのに必死で、自分の子どもを身売りに出してまでしなければパン一つ買うのさえ覚束ないと言う。直接聞いた訳ではないが、リンが闇市で売られていたのは恐らくそう言った事情があるんだろう。そしてあの闇市で見た時、あの子は奴隷として売られているのが信じられないくらい凛として佇んでいた。きっと、家族の為に身売りすることに覚悟を決めていたのだろう。
 しかし、リンはまだまだ幼い。家族を恋しく思うのは当然だろう。私やエリサが家族のように接すれば接するほど、多分彼は何度も自分の家族を思い出して苦しむのだろうか。だとすれば、私の行為はただの残虐な行為じゃないか。妻の暴言と同じような苦しみを与えてしまうことになるのか。
 ……ああ、私はなんて残酷な人間だろう。
「……すまない、リン。私のせいだね」
「そ、そんな、違います、ぼくが……まだ家族のことを考えているせいで……忘れないとって何度も思ってるのに」
「いや、リン、それは違うよ」
 リンの頭を撫でながらそう言うと、リンが青い瞳を見開いて私を見つめる。
「旦那様……?」
「リンは家族のことを忘れちゃだめだ。お前が生まれ育った大事なものなのだから」
 それを含めてのリンに、私は一目惚れをしたのだ。
 そのまっすぐな思いを失わせるなど、してはならない。
「でも……」
「いいんだよ、リン。……その代わり、これからは君にとって辛いことがたくさんあると思う。私もエリサも、君を家族の一人として認識している。ベスも今は理解がないが、きっと長い年月の中でお前を家族として認めてくれる日が来るだろう。その間、私やエリサの言葉でお前を今日みたいに泣かせてしまうかもしれない。家族を思い出して辛い思いばかりさせてしまうかもしれない」
 だが。
「それでも、忘れないでくれ、お前の大切な宝を。そして、私たちのこともお前にとって家族だと思ってくれると嬉しい」
「……っ」
 再度溢れる涙を拭うことはできても、本当の家族の元へ戻してやることはできない。
 だけど、こうして私たちがリンの第二の家族になることができれば。それが例え今のリンにとってとても辛い幸せなのだとしても。
「リン、お前は大切な家族だよ」

ほろ酔いオレンジジュース

「何だよぉ、みなとぉ、お前全然飲んでないじゃん、ほら、飲めよ飲めよ~」
「いや、もう自分は十分頂いたんで……って先輩、勝手に注がないで下さい」
 不愉快な隣の席のタバコの匂いと騒々しい空間で、断ったにも関わらず遠慮なく果汁百%を謳うラベルの目立つ瓶を傾けて、どばどばと勢い良く橙色の液体がグラスに注がれる。むっとして正面のへべれけ顔を睨んでも、先輩はなはははと勝ち誇ったように笑うだけだった。
「ほら、出されたもんは飲んどけ飲んどけ! 別にアルコール入ってねえんだからいいじゃねえか、オレンジジュースに付き合ってくれてもよ」
「はあ……」
「いやー、ここのオレンジジュースは酸味が少なくて飲みやすいよな!」
 言いながらぐいぐいと勢い良く自分のグラスにあったオレンジジュースを飲み干して行く先輩。その頬は赤べこ並みに真っ赤に染まっていて、正直見ていて不安を覚えるレベルだ。
 いつ見ても不思議な光景だ。アルコール成分ゼロのオレンジジュースでここまで酔えるなんて、先輩の体は一体どんな仕組みになっているんだろう。飲みに誘われる店は何種類かローテンションしているし、ジュースの種類も店によって微妙に異なるから、オレンジジュース自体がおかしいわけではないようなんだが。
「あー……湊(みなと)が回ってるぅ……二人に増えてるぅ……」
 なんて改めてこの三つ年上の先輩の神秘性について考察していたら、当の先輩が空のグラスを手にしたままふらふらと左右に体を揺すり始めてしまった。さすがにあれはヤバいし、そろそろ終電的な意味でもお開きにした方が良さそうだ。
「先輩、そろそろ終電の時間です、行きましょう。支払いやっときますよ」
 立ち上がって自分の財布を手にする僕に、先輩が左右に揺れながら懐をごそごそと探ったかと思うと、そのままくたびれた黒の長財布を放ってきた。
「俺の奢りだって言っただろぉ……頼むぅ」
「……はいはい」
 僕がしっかりと財布を受け取ったのを確認して満足したのか、先輩はへらっと笑ったままテーブルに突っ伏してしまった。今日は随分と飲み過ぎてしまったらしい……オレンジジュースだが。
 これは駅までの道のりが大変そうだな、とため息を吐きながら、僕は受け取った長財布を手に会計へ向かった。

「先輩、大丈夫ですか?」
「んー……」
「水とか要ります?」
「んー……いらん」
「そうですか……じゃあ、休憩していきます?」
「んー、でも終電なくなっちまうだろー?」
「そうですけど……」
 店を出ても尚も酔いから醒めない先輩の足取りは覚束なくて、時折看板や電柱に向かって頭を打ち付けそうになるのを慌てて僕が止めに入らなければいけないほどだった。僕と先輩は駅までしか一緒にいられない。一人になった先輩が何事もなく自宅へ戻れるかどうか、今の状況を鑑みるに難しいと思うんだが。
 先輩は一人暮らしだったはずだ。誰か頼れそうな人を呼ぶとか?
「先輩、誰かに迎えにきてもらった方がいいと思います。今の先輩じゃとても帰れそうにないですよ」
 僕の言葉に先輩は相変わらずうーうー唸りながら首を横に振った。
「いやあ、さすがに時間的に無理だろ~、つーか、そもそもみっちゃん夜勤だしぃ」
「みっちゃんって誰ですか」
「んー、言ってなかったっけか、かーのーじょ! 最近付き合い始めたんだよ」
「それは……おめでとうございます」
「何だよ、よせやい、照れるじゃねえか」
 照れくさそうに笑いながら電柱の方へ向かおうとしたその体を無理矢理引き止めて、僕はため息を吐いた。
 仕方ない人だな……。
「じゃあ、僕んちに泊まって下さい」
「へ?」
「そんな千鳥足の先輩を一人で帰すの、心配ですし」
「えー、大丈夫だってー、飲んだのはオレンジジュースだけだしー」
「そうですけど、今の先輩だと線路に真っ逆さまに落ちて電車に轢かれちゃいそうですから。どうせ寝るだけなんですし、僕は構いませんよ」
「んー……けど、湊、お前自分ちに人を招き入れたくないって言ってなかったっけ」
「基本そうですけど、緊急事態ならば致し方ないですよ」
 余計なこと心配する先輩に呆れながらそう告げると、先輩はぼんやりとした目つきのまま僕を見つめ、
「……ん、じゃあ、ついでに一つ頼んでいいか?」
「何ですか?」
「酔いさましにそこのコンビニでオレンジジュースを」
「ダメです」
 だよねえ、とだらしなく笑って頭を掻く先輩。
 ただでさえオレンジジュースで酔っているという奇妙な状況なのに、それを悪化させるようなことを許可できる訳がない。泊める側の立場としても、それは頑固拒否して当然だ。
「まあお茶くらいなら出しますから。行きますよ、先輩」
 掴んだ腕をそのまま引っ張って先へ進む僕の耳に、先輩の明るい笑い声が響いた。
「あはは、湊ぉ、何か俺より先輩っぽいな~いつの間にそんなに強引になったんだぁ?」
「うるさい、酔っぱらい」

 先輩の自宅がある方とは逆の方面で二駅ほど電車で移動し、十分も歩かない内にたどり着いたマンションの一室。最初は暢気そうに笑っていた先輩だったが、眠気が体を支配し始めたのか、玄関で靴を脱ぐ時はかなり眠そうにうつらうつらしていた。……ほんとに、オレンジジュースだけなのに何故ここまでアルコールに似た症状が出るのか、僕には全然理解できない。
「先輩、大丈夫ですか。手、貸します?」
「んー……みっちゃん、水ぅ」
 ついには僕を彼女と間違える程に意識があやふやになってきたか、これはいよいよヤバいな。
「先輩、失礼します」
 玄関の床に突っ伏しかけている先輩の靴を脱ぎ去り、そのまま引きずってリビングへ運ぶ。僕がバリバリ文系のひょろっこ体型じゃなければ担いだりできたんだろうけど、まあ仕方ない。先輩の臀部のところからフローリングの床との摩擦音がして、あまりよろしくない状況になってるかもしれないなあなんて思ったけど、まあそれも先輩が泥酔していたからってことでよしとしてもらおう。
「先輩、お水です」
 冷蔵庫から取り出したペッドボトルの水を注いだコップを手渡すと、ゆらゆらと落ち着きなく体を揺らしていた先輩がまたにへらと笑ってこちらに手を伸ばしてきた。
「あは~、サンキュー、みっちゃ」
「湊ですから」
 しっかり訂正しつつコップを渡すと、先輩は一気に水を飲み干した。不愉快なアルコール臭は然程せず、むしろ隣の席から漏れていたタバコの匂いが微かに残っているだけだ。お酒好きな人間が集ううちの部署の中で、先輩のような存在は本当に不思議だ。
「あー……生き返った~酔い、醒めたわ~」
「本当ですか? まだ目が淀んでますけど」
「さっきよりマシだよ、ちゃんと湊を湊だって認識できるしな」
「胸を張って言うことじゃないです、当たり前のことですから」
「へへへ、悪いな、お前の根城に入り込んじまってよ。……ほんと、見た目を裏切られねえ小綺麗な部屋に住んでんのな、お前」
 改めて僕の部屋を興味深そうに見渡す先輩に、僕はキッチンでやかんに水を汲みながら肩を竦めた。
「面白みのない部屋ですみませんね」
「別に面白くないとは言ってないじゃんかー……おー、すげえ本棚、これ全部私物か?」
「……ええ、まあ」
 先輩が部屋の隅に置かれていた藍色の本棚へずいっと身を寄せたのを見て、思わず声音に剣呑としたものが含まれてしまう。僕の根城の中でも一際僕の心の拠り所である本棚は、一度だけうちを訪れた家族にでさえも触らせなかった。本に垢がつくといったような心配よりも、その中身を見られることで自分の内側をかいま見られるのが嫌だという気持ちの方が強いせいだ。でも仕事上の先輩で、新人の頃から面倒を見てくれた年上の彼に、家族のように「見るなよ」とあからさまに言う訳にもいかない。
 そんな僕の複雑な気持ちを悟ったのか、先輩は本棚に並んだ本の背表紙をちらりと見ただけで、すぐに苦笑いして肩を竦めた。
「俺にはチンプンカンプンだな、きっと」
「先輩は本を読まないんでしたっけ」
「ああ、みっちゃんに前に借りたケータイ小説の本、あれが精一杯だ。何が面白いのかイマイチ理解できなかったけどな」
「そうですか」
 らしいな、と思って少し笑いつつ、緑茶のティーバッグを入れたカップにお湯を注ぐ。
「湊はほんとに本好きなんだな。いつも読んでいることだけはあるなあ」
「まあ、趣味なんで」
「俺も本の一つや二つ読めたら話が弾むんだけどな」
「先輩が文学に詳しくなったら明日は嵐ですね」
「ひでえ」
 ティーバッグを抜いてお茶を先輩の前に出すと、先輩は眠そうな目をこちらに向けた。
「なあ、湊」
「はい?」
「お前ってさー……ほんと、いい奴だよなあ」
「……布団敷きます?」
「いやいや、真面目な話、ほんといつも俺ぁ思ってんだぜ?」
 そんな眠そうな目の人に言われても、としかめっ面を浮かべる僕に、先輩はまた可笑しそうに笑った。
「お前の知っての通り、俺は酒も飲めなければ仕事もできねえ、部署の足引っ張ってるトラブルメーカーって奴だな」
「そこまで自分を卑下することはないと思いますけど……大体、先輩がいなかったらうち、こんなに上手く回ってませんから」
「あはは、ありがとな。けどなあ、酒がからっきしダメってのはノリが悪いって思われちまう世知辛い世界だからなー。ましてやオレンジジュースで潰れるなんて、始めはみんな面白がるが、すぐにつまらん男として認識されて飲み会に誘ってもらえなくなっちまうんだよな」
 確かに、先輩が他の先輩社員と飲みに行く姿はあまり見たことないな。新人歓迎会とか送別会とか、そういった行事に出席するものの、アルコールやオレンジジュースを摂取する様子は見られなかったように思う。
「だから、毎回俺の誘いに乗ってくれるお前は、すげえいい奴だ、間違いねえ」
「……別に乗ってる訳じゃないですよ。先輩が勝手に連れて行くんです」
「あはは、でも最後まで付き合ってくれるし、こうして泥酔したら泊めてくれるだろ、いい後輩だよ」
 しみじみと褒められて、僕は居心地悪そうに自分の分のカップに目を落とした。
「いい後輩なんかじゃないです。僕の方こそ、付き合いづらくてノリの悪い奴だって言われてますから」
 常に飲み会を断り、積極的に会話に参加することなく、休憩時は本を読んでいるような僕。誰かとつるむのは昔から苦手で、常に自分の世界に引きこもりがちだった。でも仕事では最低限のことをやっていると思っているし、誰かに自分の世界に踏み込んできて欲しいとも思っていない。だから他人を部屋に招き入れないし、勿論彼女だって作らない。男にも興味ないし。
 別に構わないんだ。誰かに「ネクラ」だの「ぼっち」だの言われても。そんなの、今更のことだし。
「へー、何だ、湊、気にしてるのかそのこと」
「いいえ、別に。どうでもいいです。ただしょうもない陰口を聞いたことがあるだけです」
 僕の返答に先輩が驚きの表情から打って変わってにんまりと笑う。
「やっぱ、俺、お前好きだわ」
「何ですかいきなり、僕にそんな趣味はありません」
「俺だってねーよ、彼女いるし。……そうじゃなくて、人間的に好きってこった。お前のそういう何事に動じない態度ってのは、見ているこっちも何か自信が持ててくる気、するぜ」
 僕を見て自信が持てる、というのは初めて言われたことだ。僕に対する評価と言えば「付き合いにくい」だの「つまらない」だのそんなマイナスなものばかりなのに。
 むしろ先輩の方がずっとプラスの要素を感じられると思う。オレンジジュースで酔ってしまうという点を除けば、面倒見もよく、いつも人当たりのいい笑顔を浮かべているからコミュニケーション能力の高さを感じる。僕にはもったいない先輩だと感じる程に。面倒だし照れくさいから言わないけど。
「僕を見て自信を持つなんて、相当酔っぱらってますね、先輩。救えませんよ、さすがに」
「お前なー……ま、いっか。素直に受け取るのは湊らしくないもんな……ふわあ」
 先輩が大きく欠伸をする。ふと時計に目を落とせばいつの間にか午前一時を回っていた。
「そろそろ寝ましょうか、先輩。シャワー、浴びます?」
「お~……みっちゃんも一緒に入るかぁ」
「いきなり思い出したように酔わないで下さい」
「んー」
 何なんだ、この人、いきなりまた酔っぱらい始めてしまった。こうなったらもう今日は布団に入ってもらった方がいいかもしれない。
 ため息を吐きつつ、予備の布団の準備を始める僕に先輩の楽しそうな笑い声が響いた。

シュウカイドウ


 今日も雨。いい加減傘を持って登下校するのも嫌になってきた。朝は仕方なく重い足を引きずって学校へたどり着くけど、帰りはしとしとと変わらず降り続ける雨を見るとすぐに帰ろうという気分にどうしてもなれなくて、最近は帰る気が起きるまでずっと誰もいない教室で過ごすことが多かった。
 部活動へ行く友達に手を振って、同じく残っていた子たちとお喋りして……気がつくと教室には私一人きりが残る。特別静かな空間が好き、という訳ではなかったのだけれど、こうして過ごす内に不思議とこの空間への愛着が沸いていた。
 今この空間だけは誰のものでもない、私一人きりのもの。
 そう思うとちょっぴり気分が高揚して、どんなことでもできそうな気がしてくる。
 今日出た宿題はもう済ませてしまった。というかこの不思議な習慣を始めてから、宿題を忘れることがなくなったのだ。この高揚感のまま取り組むと、ほんとにすらすら解けてしまうようになったから。
 さて、次は何をしようか。
 わくわく感に足をじたばたさせていると、がらり、と教室のドアが開いた。
「森野? きみ、まだいたのか」
 掠れたハスキーボイスに名前を呼ばれ、その丸っこい目で見つめられた私はばたばたさせていた足をぴたりと止めて思わず背筋を伸ばした。体中を支配していたわくわく感や一人きりであるという優越感が見る見る内に消えて行く。
 この私の不思議な習慣にはかならず終わりがあって、その終わりを知らせにやってくるのが私の担任の秋先生だった。
「秋先生……」
「最近よく教室に残ってるよな、何かやってるのか?」
「え、っと……しゅ、宿題、ここでやると捗るから……」
 先生の目を見つめ続けることができなくなって、視線は先生の手元にある白い花瓶に注がれる。そこには淡い桃色の、小さくて可愛いお花が活けてあった。こんなお花の形のピンを昔持ってたなあ、なんて思いながら、何とか体の中を支配し始めるどきどきをコントロールしようともがく。
 先生が現れると、余裕のある私なんていつも消えてしまうんだ。
「へえ、何だ、それでか。最近宿題忘れないから何でだろうと思っていたけど、そういうことだったんだな」
 ほんの少しだけ丸い目を細めた先生は花瓶を教室の右隅へちょこんと置いた。
 先週あったゼラニウムの花も可愛かったけど、このピン留めの飾りについてそうなお花も可愛い。
「先生、そのお花、何て言うんですか?」
「ん、これ? シュウカイドウって言うんだ」
 花びらをつん、と軽くつついて答える先生。
「うちの近所にこの花が咲いてるお寺があってね、そこの住職さんのご好意で頂いたんだよ」
「へえ……」
 先生の指先に触れている花弁が少しだけ羨ましくて、どきどきと一緒にじくじくと痛みが襲う。
 先生がお花好きなんて今に始まったことじゃないし、あんな風に触れているのを見るのも初めてじゃないのに、何か今日は一段ともやもやする。可愛くて小さなシュウカイドウ、女の子の姿だったら先生を盗られちゃうかもなんて妄想までしてしまった。
 そんな私の思いなど知る由もない秋先生はシュウカイドウを眺めながら、ふと楽しげに唇を吊り上げた。
「花言葉は、片思い」
「えっ」
 唐突に漏れた「片思い」の言葉に、私は心臓が飛び上がりそうなくらい驚いた。
 だけど先生は相変わらずシュウカイドウへ視線を落としたままで、私の方なんてちらりとも見ない。
「いかにも女子が好きな花だと思わない? 愛らしい容姿に花言葉は「片思い」なんて」
「……そうですね」
「うちのクラスは女子が多いから、次飾るならこの花だって決めてたんだ」
 先生、シュウカイドウばかりーーお花ばかり見てないで。
 折角二人きりなのに、こんなの全然嬉しくないよ。
 渦巻いて行く黒い感情に押されて、私の唇から本音が零れそうになる。いや、こんな形で気持ちを暴露なんかしたくない。
 したくないけど。
「……私は、嫌い」
「え?」
 先生が目を丸くしてようやく私を見てくれた。
 だけど、まだ渦巻いている黒い感情のせいで、私の唇は更に花への嫉妬をまき散らしてしまう。
「何かこびてるみたいで、嫌い。可愛ければ何でも女子受けするなんて、思わない方がいいよ、先生」
「……そうか、森野はこういう花、好きじゃないのか」
 私の言葉に先生が苦笑を唇に滲ませる。
「先生は結構気に入ってるんだけどな、シュウカイドウ。自己主張する大輪の花よりも断然、存在を意識するくらいにね」
 シュウカイドウの控えめな愛らしさには気づいても、毎日顔を合わせる私の気持ちを知らない先生がほんの少し憎らしく感じた。悔しい。あんなお花、枯れちゃえばいいんだ。そんな醜いことを更に口走りそうになった自分が、悲しい。
「とにかく、あまり遅くなるなよ。勉強熱心なのもいいけど、遅くなりすぎると親御さん、心配するぞ」
 ようやく先生がシュウカイドウの花びらから指を離して、そのままその手を私に振って出口へ向かう。私が小さな声で「はい」と答えると、その返答に満足したらしい先生がうん、と穏やかに微笑んで教室を出て行った。
 教室には私と、可憐なシュウカイドウだけ。
 先生の遠ざかって行く足音をよそに、私は静かに立ち上がり、ゆっくりとシュウカイドウが活けられている花瓶へ近づいた。可愛い、だけど憎さも同じだけこみ上げてくる。この短時間でこんなにもこのお花への印象が変わるなんて、私は何て嫉妬深いんだろう。
 先生の指先が触れた花弁へ、そっと指を這わせる。このまま私が握りつぶしてしまえば、シュウカイドウは抵抗することもなくその可憐な姿を無惨なものへと変えるだろう。そうすれば先生はもう、このお花を飾らなくなる。ううん、ひょっとしたらお花自体飾らなくなるかもしれない。
 そうすればーー先生はお花以外をーー私を見てくれる?
 指の腹に力が加わった、その時不意に先生の声が蘇った。

ーー花言葉は、片思い。

 片思い。一方的な恋。それは私も同じだった。
 教師と生徒なんてハナっから無理だって分かっていた。みんなが同い年の男子や年上の先輩に熱烈なアプローチを、それこそ大きく咲き誇るヒマワリやバラのような大輪のように主張する中、私はひそりと心の中で先生を思い続けている。それこそ、シュウカイドウのように小さくて手にしたら今にも潰れちゃいそうで。
 そう思ったら、それ以上できなかった。
 そっと指を離し、じっとシュウカイドウを見つめる。しとしとと降り続ける雨の中で、変わらずシュウカイドウはその可憐な姿を留めたままひそかに恋心を主張し続けていた。

夏の終わりに、始まり

※「夏のお嬢さん」と同じ設定。ヒロインの弟のお話。


『ーー以上、お昼の放送を終わります』
 スイッチを切り、ようやく安堵の息を吐く。これで夏期講習含めて学内での活動は一応終わりだ。二日の土日休みを挟んだ後、始業式が始まり、またいつもの生活のリズムが戻ってくる。
 夏休み、完全終了だ。
「かったりぃ」
 ふわあ、とあくびを一つ零して、昼飯用に買っておいたコンビニの焼きそばパンに手を伸ばす。午後は特にやることもない。かといって家に急いで帰ってもクーラー嫌いの母親のせいで快適な昼寝にも勤しめねえ。つるんでる連中はこのクソ暑い中、夏期講習からの一時的な開放感と最後の夏休みを満喫すべくプールに行くと言っていたが、そんなのに付き合うのもごめんだ。
 夏は涼しい場所でひたすら惰眠を貪る。これだね。
 誰に言うでもなくそう心の中で呟いて一人頷いていると、こんこん、と背後からノック音がした。
「……はい?」
「失礼しまーす……あっ、やっぱりいた!」
 聞こえてきた男の声に、俺はあからさまに不機嫌なオーラを出しながら振り向いた。
 弄くっていない自然な頭髪にきっちりネクタイ、無駄に人の良さそうな笑みを浮かべたその男は俺の隣のクラスの奴だ。名前は……知らん。けど、顔は嫌になるくらい覚えちまった。
「かなたくん。探したよ」
「帰れ。ここは放送部以外立ち入り禁止だっての」
「えー、でも今お昼の放送終わったところだよね。いつもここでお昼食べてるって聞いたんだけど」
 くそ、誰だよいらんこと教えた奴。
 手にしている唐草模様の包みを前に掲げて、当たり前のように中に入ってくる。だから立ち入り禁止だって言ってるんだが。
「アンタ、何なの? 何か言いたいことがあんならはっきりしろよ」
「え」
「夏期講習中ずっと付きまとってきて、何なんだよ。男相手にストーカーとか悪趣味にもほどがあるぞ」
 当たり前のように俺の隣を陣取ったそいつから、椅子一つ分移動して距離を取る。するとそいつはうーんと軽く首を傾げて、何かを思い出したようにくすっと笑った。
「オレも基本的に男に興味があるわけじゃないけど。でもかなたくんと友達になりたいなあって言うのはあるよ」
「何だよそれ、きめぇ」
「ひどいな、本心なのに」
「なおさらきめぇよ。訳分かんねえし」
「うーん、まあそうだよね。きっかけも……うん、不純なものだったし」
 おい、何故そこで頬を赤らめる。ますます意味分からん。ときめくなら、うちの顔だけはいい双子の姉貴相手にでもしてくれ。こういうシチュエーションだか何だかにやたら弱いからころっと懐くぞ。
 ますます渋い顔をする俺に、奴は未だ赤い頬をぽりぽり掻きながら、それでもまっすぐに俺を見つめてきた。
「でも、君が放送部員で時々流れてくる放送に声を乗せてるって知って、それを何となく聞いていたら……すごく良い声だなって思ったんだ」
「はあ?」
「お昼の放送もそうだけど、下校時間のアナウンスもしてるでしょ? 他の生徒の声よりもかなたくんの声ってすごく頭に残るんだって気がついたよ。みんな聞き流してるから気に留める人はいないけど、改めて耳を澄ますと君の声、本当に綺麗だった」
 ……どういうリアクションをすればいい。盛大に「はあ? 頭沸いてんの?」と呆れ返った声で言えばいいのか? いや、何か……何かそれは違う気がした。
 放送部に入って、もう数えきれないほど校内に声を飛ばして来たが、こんなことを言ってくる奴は初めてだった。いつもつるんでる連中も、俺の放送に対していちいちコメントしてくることはないし、大体俺が放送の当番で抜ける時、「何で抜けるんだよ、付き合いわりぃな」とまで言われたこともある。
 初めてだった、俺の放送を聞いてしかも「声が綺麗」とかいう変わり者は。
「な、なんて、恥ずかしいこと言ってごめんね。別に深い意味があるわけじゃなくて、単にそう思ったってだけだから、気にしないで」
 誤摩化すように笑って唐草模様の包みを解き始めたそいつに、俺は口にするつもりのなかった問いかけをした。
「お前、何て名前?」
「え?」
「名前、人のこと散々呼んどいて、自分の名前教えないってのはないだろ。……友達とやらになりてえんだろ?」
 そのワードを自分から口にするのは気恥ずかしくて、ついぶっきらぼうな言い方になっちまう。しかし、そいつは混じりけの無い黒い瞳をぱっと輝かせて、どこか誇らしげに口を開いた。
「宇宙」
「は? うちゅう?」
「宇宙って書いて、『そら』って読むんだ。島田宇宙(そら)。それがオレの名前」
 ……なんと言うか、今流行のキラキラネームって奴だろうか。まあ俺もひらがなで「かなた」なんて名前のせいで変な名前だの女みたいだの言われまくってたから、似たようなもんだけどさ。
 けど、こいつーー島田宇宙(そら)はむしろそんな自分の名前を誇らしく感じているらしい。
「……変な名前」
「うん、よく言われるよ。オレも最近までそんなに好きじゃなかったけど……でも、最近はちょっと気に入りつつあるんだ」
 また何かを思い出したのか、嬉しそうに笑う。ほんとによく分からん奴だ。突然脈絡も無く人に付きまとってきたり、誰も聞いていないも同然の放送に耳を傾けて「声が綺麗」とか言いやがったり。
 はあ、とため息を吐いて、放置していた焼きそばパンを引き寄せた。
「ソレ食ったらさっさと帰れよ、島田」
「え、交流を深めるためにどこか行かない?」
「行かねえよ。こんなクソ暑い中うろつくシュミはねえ」
「そっか。じゃあ、ここでのんびり交流を深めるってことにしよう」
「勝手に決めんな、帰れ」
「えー、やだよ。折角かなたくん、友達になってくれる気になってくれてるのに」
「誰がなるっつったよ」
 おかしな会話は絶えない。お陰でさっさと済ませるつもりだった昼飯のペースも落ちて行く。
 けど、不思議とそれが「嫌じゃない」自分がいた。

 夏休みの終わり。俺とそいつの変な交流が始まろうとしていた。
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